わからなくても近くにいてよ

この連載について

いつも、相手のことがわからないと思っている。
わからないと思いながら笑ったり驚いたり嫉妬したり、毎日おろおろしている。
話したい、のに話しかけるのが面倒でうやむやになってしまうことばかりな気さえする。
わかりたいのは不安だから。自分ばかりが求めてしまうことに辟易しながら、わからないからあなたとかかわりたいと思う。
お前はいつも鬱陶しい!とつっこみながら読んでもらえたらうれしいです。

第11回

母ではないわたしたち

2024年4月3日掲載
撮影:著者


 3月はじめの週末、保育園のクラスのお友だち宅で集まって遊んでいたときのこと。ひとりが「うわ、そういや明日ひなまつりかぁ、やばい今年お雛様出してないっ」とちいさく叫ぶ。「うちなんてほら、女の子ふたりだけど見ての通りお雛様買ってないですよ」と家主であるママが返す。けれど、お手製の折り紙の雛飾りだとか、かわいらしい花の切り絵だとか、ちゃんとこの部屋にひな祭りムードは漂っていて、だから言われるまで雛人形がないことには気づかなかった。別にはじめからお雛様なんてマストじゃないのかもなあ、と思いながらそのちいさな折り紙のお雛様をしばらく眺めていた。


 自分の子どもの頃のひな祭りを思い出す。毎年3月3日を前に、母方の祖母から段ボールいっぱいのひなあられが送られてきた。ひなあられってこんなに種類があるのか、と思うほど、甘いものからしょっぱいものまで、わたしはなかでもチョコボール入りのものが好きで、好んで食べていた。
 祖母から送られるひなあられをひとつの合図のように、「さー、今年もそろそろお雛様出さなきゃ」と母が立ち上がる。わたし、妹、母で押入れからいくつもの大掛かりな箱を引っ張り出してお雛様を設営した。そう、ほとんど設営なのだった。わたしの誕生を機に祖母が買ってくれたというお雛様は、7段ある本格的なものだった。子どもの頃は思い至らなかったが、祖父母とてさほど裕福というわけではなかったはずだ。狭いマンションの一室をいっぱいに占拠するお雛様。たぶん、こういう立派なお雛様はうちのような一般家庭には置かれないのではないか。子ども部屋の中央に鎮座するお雛様はそれはもう大層立派で、つねに身体を平行にして横を通るのがやっとだった。それでも五人囃子のたて笛やら烏帽子やら、とにかく通るたびに何かしらの小道具が落ちたし、お雛様の裏に隠れた電子ピアノはものすごく無理のある体勢で弾かなければならなかった。
 ひな祭り当日は母が豪華なちらし寿司を作ってくれた。誕生日やクリスマスと同じような行事のひとつとして子どもの頃は当たり前だったけれど、いま思えばかなり本気のひな祭りだったのだろう。あんな大掛かりな雛人形を出してすぐにまたしまって、だなんてそれだけで重労働で、小さい頃にはわたしも楽しんで手伝ったけれど、思春期になれば次第に構わなくなっていった。
 といって母も「早くしまわないとお嫁に行き遅れるって言うけど、そんなのねぇ」と3月3日を過ぎた雛人形を見るともなく眺めていたので、できるだけ早く結婚しろ、などというプレッシャーを感じることはなかった。だからひな祭りの思い出が鬱陶しいわけでもない。ただ、行事として毎年やってくれていたんだな、と思い返す。というか、母とて祖母からのこの立派すぎる雛人形を半ば持て余していたのではないか、などと考えたりもする。妹もとっくに成人してしまった実家で、お雛様はいまも眠っているのだろうか。


 祖母は、わたしの妊娠中にも赤ん坊のことを誰よりも案じていたらしい、というのは母から伝え聞いていた。
 出産を1か月後に控えた頃、突然赤ちゃんの成長がぴたっと止まってしまった。理由はわからない。通っていた近くの産院で「とにかくこりゃうちでは産めませんね」と言われて大学病院に転院になった。半分泣きながら母に連絡すると、思いのほか母は落ち着いていた。ちょっと風邪を引いただけで「体調どう?」と連日連絡をよこすような心配性の母がこんな一大事に落ち着き払っているなんて、あり得ないことだった。むしろ自分の感情をあらわせないほど心配していることが痛いほど伝わってきた。
 「なんかおばあちゃんがさ、庭の枇杷の木、切ったらしいんだよね」と、後日母から連絡が来たときには一瞬なんのことかわからなかった。今回の一件を母から聞いた祖母がどうにも心配で居ても立ってもいられず、どうもそういうことらしかった。枇杷の木を切る? そんな言い伝えでもあるのだろうか。枇杷の木を切ったって、赤ちゃんが大きくなるわけではない。なぜそんなことを、とかずっと大事に育ててたのに、とかいう言葉は通じないことはわかっていた。とにかく曾孫ができたことをこころからよろこんでいた祖母の必死の思いを知って、いたたまれなかった。
 
 子どもはなんとか無事に生まれた。長らく逆子で帝王切開の予定だったが、いざ手術を控え入院した日のエコーで逆子が戻っていることがわかり、そのまますごすご帰宅した。そこから予定日までのわずか2週間でぐんと成長したのか、実際生まれてみれば想定より300gも大きく、結局わたしと一緒に退院することができたのだった。
 ほどなく、祖母から誰よりも早い出産祝いが送られてきた。ご祝儀袋の細い短冊には「おめでとうございます うれしくてたまりません」と添えられている。おばあちゃん、そこは名前を書くところだよ。そう思いながら、ぐっと喉がせまくなる。生まれるっていうことは、なぜこんなにひとを喜ばせるのだろう。そのことがしんそこ不思議で、祖母の、訥々としたその字をしばらくじっと見つめた。
 きっと曾孫ほどの距離であれば、願うことなど「生きていてほしい」ただそれだけなのかもしれない。そうであれば、孫であるわたしへの立派すぎるお雛様も、すべては「元気でいてほしい」という強くシンプルな願いに収斂されるように思う。枇杷の木を切らなくたって、そんなに大きなお雛様じゃなくたって、ちゃんと伝わってるのにな。母と子の近すぎる距離感ではかなわない、その真っ直ぐさに打たれながら、あまりに些細なことで子どもに苛立つ自分がいっそう情けなく感じられる。 
 
 ほら座って食べなさい、もうテレビもYouTubeもおしまい、見すぎ! 歯磨くよ、おしりは出さないの、服を着なさい、そしてしまいには「もう、ちゃんとしなさい!」というあまりに漠然とした注意が自分の口から出ることに驚く。こういう生活のしつけから、この子の将来までを見据えるなんて、考えるだけで気が遠くなる。
 近くにいると、どうしても願いは増えてゆく。そもそもこんな小言は願いですらない。生きていてほしい、できればずっと元気でいてほしい。願いなどたったそれだけだったはずなのに、そしてそれすら、ほんとうにはいまだって担保されるわけではないのに、いい子であってほしい、賢くなってほしい、この生きづらい世を生き抜くために、できるだけたくさん力を身につけてほしい。気づけばそう願っている。そしてそのように子どもに何かを求めるたびに、それらはいつしかわたし自身の欲望と見分けがつかなくなってゆく。
 
 つまりそれが子育てするってことなんだよ、と言われてもすぐには頷けない。大事に育てるってなんだろう。その子らしさってなんだろう。そうだ、祖母は遠くにいるからこそ、願うしかないのだ。遠くからこんなにも強く、ただ生きていることを願われて、わたしからはこんなに卑近なことで叱られて、そんなことを知らずにこの子は生きている。何も矛盾しない。ほんとうにはわたしさえも、祖母に同じ願いを向けられていることをいつでも忘れそうになる。おばあちゃんに何かを求められたことなんて、思えば一度もなかった。
 
 もうひとりの、父方の祖母から言われた言葉を思い出す。
 まだ赤ん坊の子どもをはじめて会わせたときのこと。ミルクをやったり、あやしたりと必死のわたしを見て、「あんた、なんも変われへんな」と祖母は目を丸くした。祖母にとって、わたしは子どもを産んでも孫のままなのか。もっとお母さんらしくなってるもんかと思うたけど、全然変わらへん。おかしいなぁ。と祖母はつぶやいた。わたしは愉快だった。変わらないんだな。こんなに変わったのに、変わらないんだな。ママなんだけどな。おばあちゃん、わたし自分のこと「ママ」って言うようになっちゃったよ。そう思いながら、少しだけ泣いた。
 
 
 つい先日、保育園の同じクラスのママたちで飲み会を開いた。これまで子ども連れで集まって話すことはあっても、お互いのことは断片的にしか知らなかった。それなら、と勝手に意気込んで企画した飲み会だった。なかなかの参加率で、担任の先生(も実は他のクラスにお子さんを通わせている)までノリよく来てくれた。
 せっかくママだけなのだから、今夜はあえて子どもの話題は出さなくていいだろう。そう思って、自己紹介ではあなた自身のことが知れる趣味とか、特技とかを教えてほしいです、と言うつもりでいた。けれどもうみんな居酒屋に集まるや、すでに大にぎわい、おずおずと、「一応自己紹介をしませんか」と提案すると、えー今さらー? という雰囲気のなか、誰かが話せばどんどん話は盛り上がる。「昔からイギリスに憧れてて、結局地元で結婚しても諦められなくて、英語なんてまったく話せない夫を引っぱって渡英したんです」「えー、私もひとりで海外放浪してた!」「おーすごい」「あたしはもうずっとK-popが好きで」「うっそ、わたしの元彼韓国人!」「えー!!」
 お互いがお互いのことに興味津津で、知りたくて、仲良くなりたくて、そういう気持ちがどんどん伝播して、お酒をじゃんじゃん飲むひとも、飲まないひとも同じだけ笑ってしゃべっていた。こんなに楽しい夜はいつぶりだろう。二次会へ移動して、気づけば深夜2時になっている。気づけば深夜なんてこと、学生時代の飲み会ですらなかったかもしれない。眠くもなければ、話すことも全然尽きない。そんな魔法みたいな時間がこの世にはあったのだ。
 あんまり愉快に酔っぱらったものだから、居酒屋を出たところで盛大に転んでしまった。向かいのクラブらしき店の前で立ち話をしていたホステスたちが大丈夫—? と駆けよってきた。遅れてお店から出てきたママ友たちがすぐに気づいて、流血したわたしの両膝をハンカチで拭いてくれた。
 みんなで真夜中に歩きながら、でもやっぱり飲み過ぎてそこで話したことは覚えていない。「おしっこがしたいー」「もういいよあの草むらでしちゃいなよ」「見張ってるから」そんなことを言い合ってまた笑った。
 
 子どもの話さえしなければ、わたしたちはほんとうにただの友だちみたいだ。年齢もバラバラで、仕事も趣味も全然違って、ただわたしたちの共通点は母であることなのだった。母でなければ出会えなかったんだな、と思う。けれど母親になる前に、母でないそのひとがたしかにそこにいた。あなたは海外を旅していた、あなたは韓国にいる彼の元へ飛んで行った、あなたは淡々と地元で働いていた、そしてあなたは浪人の末なぜか哲学科に入ってしまった(わたしだ)。母でないあなたを知れて、知ってもらえて、そんなあなたがいたことがうれしくて、でも、こうでなければわたしたちはそもそも出会うことはきっとなくて、それがいっそう不思議だった。
 わたしたちは母親である前に、母ではないひとりなのだ。母になったあの瞬間から、その事実はこんなにも、見えなくなる。けれど、ほんとうにはひとり一人が母ではないひとりである。そのことをこれからもずっと、ちゃんと大切に抱きとめなくては。いまはとにかく、破裂しそうな膀胱をたずさえて、しゃべりすぎて掠れた声で、わたしたちはとにかく、夜道をずんずん一緒に歩くのだ。

著者プロフィール
堀静香

1989年神奈川県生まれ。山口県在住。歌人集団「かばん」所属。
中高非常勤講師のかたわらエッセイや短歌をものする。
著書に『せいいっぱいの悪口』(百万年書房)がある。
晶文社スクラップブック「おだやかな激情」連載中。