車椅子の斉藤さんとパラグアイへ

第4回

玉ねぎの町で難病と向き合う

2024年10月14日掲載

海水に足をつける。深夜にラーメンを食べる。音楽ライブに行く。――日常を彩るささやかな楽しみ。だけどこれ、すれっからしのわたしは「ささやか」なんて言うけど、重度の障害をもち、海もラーメンもライブも知らずに何十年も生きてきた人にとってはビッグイベントだ。
その初めての瞬間に立ち会う。人生のビッグイベントに手を添える。
それが自立生活センターの介助者の仕事だとしたら、そりゃあハマるはずだわ。わたしは三澤さんと藤田さんの話を聞いて、自立生活センターの現場に流れる熱を思い知った。長いあいだやりたくてもできなかったことを、やってみる。どれほど心が弾むだろう。

ところが……。すべての自立生活がそういう方向に進むわけじゃない。斉藤さんがオンライン取材をセッティングしてくれた3人目は穂高優子さん。そこでお聞きしたはなしは自立生活センターの応用問題だった。

「穂高さんは北海道の北見市に住んでいるんですよ。人より玉ねぎが多い」
斉藤さんのざっくりした説明に、穂高さんは「ハハハッ!」とほがらかな笑い声を立てた。

穂高さんは北見市の隣町で育った。小学校の卒業文集に「将来は介護をする人になりたい」と書いたというから、ずいぶん早くに自分の道を決めていたのだ。
「いとこのお兄ちゃんが結婚したお相手が老人ホームで働いてる人でね。結婚した時にウェディングドレス姿を施設のおじいちゃんやおばあちゃんに見せに行ったりしていて、すごくすてきな人で。わたしもそういう仕事やりたいかもって思った」

高校卒業後、希望をかなえて高齢者施設に就職した。入所者がたくさんいて、決まった時間に一斉にご飯を食べさせて、おやつを食べさせて、夜勤のときは50人のオムツをヨーイドン!で交換する。それは穂高さんがイメージする楽しい介護ライフとはちょっと違っていた。

「18歳で就職して、結婚もして、わりとすぐ出産したんで一度仕事から離れました。休んでいるあいだに二人目も産んじゃって、23ぐらいで社会復帰したんです。いま41歳でもう孫がいます!」
「わー、すごい」

穂高さんは出産後ヘルパーの資格を取得し、育休明けに事業所に再就職を果たす。障害者の入浴介助などを担っていた。そしてある日、渡部哲也さんの家に派遣された。それが人生の分岐点だった。

渡部さんは筋萎縮性側索硬化症(ALS)の患者。運動をつかさどる神経の障害で、全身の筋肉がだんだん衰えていく難病だ。妻と3人の娘を得て元気いっぱいだった20代後半で発症すると、まず手足が動かなくなり、つぎに声が出なくなり、さらに呼吸ができなくなる……渡部さんはその途上にいた。

「10年以上ずっと奥さんが一人で見ていたんだけど、そろそろ大変だからヘルパーを入れようってことになったみたい。当時はALSって今よりもっと知られていなくて、「うちでは無理です」って断る事業所が多くてね」

穂高さんが初めて会ったとき、渡部さんはもう長いフレーズは発話できず、家族とは口文字コミュニケーションで会話をしていた。聞く側が「あ、い、う……」と順番に言っていき、患者はまぶたや目の動きで合図する。「う」のところで患者のまぶたがパチクリしたら、つぎに「う、く、す、つ、ぬ、ふ、む……」と「う」の段を読み上げていき、パチクリの合図で「む」にたどりつく、といった具合。そうやって一音ずつことばを紡いでいくのだ。慣れていないとむずかしい。多くのヘルパーさんが数回の訪問でギブアップしていくなか、穂高さんは……
「ALSなんて初めて見たから、わたし興味津々で」
めちゃくちゃ明るい声で言った。飾らないことば選びに、こちらも頬が緩む。

「ベッドから車椅子に移すやり方もALSの場合はちょっと特殊なんです。わたし家で練習しました。うちの旦那に「力抜いてベッドに座って」って頼んで、持ち上げる練習。何度も試して、次に渡部さんちに行ったとき「練習してきたから、ちょっとやらせて」って」

 難病の人を前に及び腰になるどころか、積極的になる穂高さん。いいなぁ。多くのヘルパーさんがやめていくなかで、穂高さんだけは渡部さんの家に通い続けた。そして渡部さんに誘われる。

「CIL(自立生活センター)を立ち上げたい。一緒にやらないか?」

 穂高さんはそれがなにかよくわかっていないのに「やるやる!」と即答したらしい。ほんとにいいなぁ。

渡部さんを代表とした「自立生活センター北見」が設立されたのは2007年。「はじめはただのヘルパーとして入るつもりだったけど、立ち上げから数ヶ月したら事業所の管理者になってました」と穂高さんはおおらかに笑った。小平の自立生活センター(第2回に登場した三澤さんがいるところ)に相談しながら、考え方ややり方を習っていったのだとか。

「それまでCILなんて知らなかったから、まったくの未知の世界。渡部にくっついて最初に研修に行ったとき、広い会場に車椅子の人がウワーッといてちょっと怖かった、アハハ。夜は飲み会になって。うちの地元の北見は玉ねぎが有名で、渡部はちょっと髪の毛が薄いんですよね。そしたら「おい、玉ねぎ」なんて呼びかけられて。おもしろい人たちなんだとわかりました」
「ハハ、そうでしたねー」
斉藤さんも画面の向こうで思い出し笑いをしている。わたしは玉ねぎに似ているらしい渡部さんの頭の形状を思い浮かべた。多くの人は、たぶんわたしも、渡部さんに会ったら「この人はALSの患者だ」という属性に圧倒されて、その他の特徴が見えないだろう。でも自立生活センターの人たちは、初対面で「玉ねぎ」呼ばわり。突き抜けているなにかを感じる。まあ、薄毛の人をからかう是非はさておき。

設立当時、ALSの代表がいる自立生活センターは全国でも北見だけだった。同じ病気の人からの問い合わせがあるたびに渡部さんと穂高さんは会いに行ったり、電話で相談に乗ったり、対応する役目を担った。

「ALSならではの悩みって?」

 わたしのぼんやりした質問に、穂高さんは明るい口調を崩さぬまま語り出した。

「たとえば事故で頚椎や脊髄を損傷して障害者になる場合、なった時の衝撃は大きいけどそこから進行はしないですよね。でもALSは人によって進み方は違うけど、どんどんいろんなことができなくなっていく。病気を受け入れるのもたいへんなのに、そのあとずーっとできなくなる自分を受け入れ続けなきゃいけないんです。手が動かなくなって介助者にごはんを食べさせてもらう状況を受け入れたのに、その数ヶ月後には足が動かなくなってじゃあ車椅子を受け入れようとなって、そのうち胃ろうをつけたり、気管切開して人工呼吸器につなげたり、そういうのが段階的にくる。最後はまぶたも眼球も動かなくなる。それが自立生活でもほかの障害者と違うところですね」

 あぁ…。わたしは衝撃を受けた。これまで聞いてきた自立生活センターのエピソードには「ずっとやってみたかったことを、初めてやってみる胸の高鳴り」が散りばめられていた。でもALSの場合はその反対。これまでできていたことが、どんどんできなくなっていくのだ。(穂高さんの話、次回につづく)

※登場人物の年齢、肩書きは取材時(2021年秋)のものです。その後、自立生活センター北見は解散しましたが、穂高さんは現在も自立生活センターに関わり、人材育成などに従事しています。

著者プロフィール
金井真紀

1974 年、千葉県生まれ。文筆家・イラストレーター。著書に『パリのすてきなおじさん』(柏書房)、『テヘランのすてきな女』(晶文社)、『世界はフムフムで満ちている』(ちくま文庫)、『聞き書き 世界のサッカー民 スタジアムに転がる愛と差別と移民のはなし 』(カンゼン)、『日本に住んでる世界のひと 』(大和書房)、『おばあちゃんは猫でテーブルを拭きながら言った 世界ことわざ紀行』(岩波書店)など多数。「多様性をおもしろがる」を任務とする。難民・移民フェス実行委員。