車椅子の斉藤さんとパラグアイへ

第5回

胃ろうからワイン

2024年10月28日掲載

「うちの渡部ね、飛行機に乗ってどこでも行っちゃうの。酒も飲むし、呼吸器つけるまではタバコも吸ってたし。じつは今もときどき吸うんだけど、ハハハ。ALSは内臓疾患じゃないから、胃ろうからワイン飲む人とかコーヒー流し込む人とか、結構います」

穂高さんが語る自立生活センター北見の代表・渡部哲也さんのエピソードはどれも印象深いものだった。自力でできることがどんどん奪われていく病気の残酷さが胸に迫る。と同時に、そこには濃縮された人間らしさが宿っていて、こんな言い方はどうかと思うけど、でもやっぱり端的に言って、とてもおもしろいのだった。

「ALSの人はみんな、自分では病気の進行を認めたくないんですよね。たとえば口が開かなくなると、ことばが不明瞭になって、介助者との意思疎通がうまくいかなくなる。最初は「介助者がちゃんと聞いてない。集中力が足りない」って相手を責めちゃう。渡部にもそういうときがあって、あとから「あぁ、俺のせいだったか」って認めてましたけど、やっぱり受け入れるのに時間がかかるんですよね」
「あぁ……」
「渡部は気管切開を決断するまで2年かかりました。まだいける、まだだいじょうぶって。でも実際は呼吸が苦しいのを我慢しているわけだから、家族や介助者にイライラをぶつける。最後はわたしが「去年より明らかに苦しそうだけど、自分で気付いてる? 楽しい時間は限られているから、苦しいまま過ごすのはもったいないよ」って結構はっきり言いました」
「あぁ……」

楽しい時間は限られている。イライラしたり他者を責めている時間がもったいない。ほんとにそうだ。これはもう、病気の有無に関係なくすべての人に言えることだ。わかっていてもなかなか切り替えられないんだけど。

ASLの平均発症年齢は60歳前後。社会経験を積んでからの発病も多い。過去にバリバリ働いていた人ほど、介助者に対しても「仕事なんだからできて当たり前」と厳しくなりがちなのだ、と穂高さんは苦笑する。いまでは自立生活センターに関わる全国のALS患者に「ここでは障害者が雇用主なのだから、介助者をちゃんと育ててください」と説くのが穂高さんの役目だ。

「当事者のほうから「今の介助はよかったよ」とか「疲れたら休んでね」とかちゃんと言ってほしいです。ただでさえALSの介助はやめちゃう人が多いからね」
「そうなんですか」
「ALSの介助って「叱られた」って感じちゃう場面が多いんですよ」

穂高さんはALSの介助者特有の「難所」を紹介してくれた。
たとえばALS患者が「体の向きを変えてほしい」と介助者に指示して、思い通りにいかなかったとき。もし発話ができれば「ちょっと違う。もう少し右に寄りたい」と言うところでも、口文字コミュニケーションや文字盤をつかう場合は「ち・が・う。み・ぎ」と短く伝えざるを得ない。どうしたって、ぶっきらぼうだ。「違う」が何度も続くと介助者は焦って、ますますALS患者の意図が読み取れなくなる。一方、疲れると感情のコントロールがむずかしくなるALS患者は、繰り返し「違う」を伝えているうちにヘトヘトになって涙がポロッとこぼれてしまう。すると介助者は「叱られて、泣かれた」と落ち込む。

全身の筋肉が動かなくなっていく途上で、表情筋は最後まで動かせる。感情を伝える手段が表情だけになったALS患者は、「NOと伝えたいとき、すっごくイヤな顔をする」らしい。慣れていない介助者はびっくりして「怖い顔で睨まれた」と萎縮してしまう。そういう病気なのだと頭では理解していても、同じ空間にいる相手、しかも体に触れる距離感の相手に「すっごくイヤな顔」をされるダメージはなかなか拭えるものではない。

渡部さんといっしょに自立生活センターを運営していくなかで、穂高さんは何度も介助者の相談に乗り、渡部さんとも話し合ってきたという。ときには議論になることも。

「口文字コミュニケーションだと、ふたりで話していても声を出すのはわたしだけですよね。渡部が「なんでわからないんだ」と怒って、わたしが「ちゃんと話を聞いて」と訴えて、渡部が「もういい!」と言う。これ全部、わたしがひとりで声を出してるわけ。相手の口の代わりになって、言いたくないことも言わなきゃいけない」

はー。「言いたいことが言えない」もどかしさは想像を絶する。一方の「言いたくないことばを口にする」つらさも地味だけどじわじわと心を削るに違いない。

聞けば聞くほど、ALSの介助者をやめていく人がいるのは無理からぬことに思えた。山登りと同じで、きっと難所を超えたときに見える風景は格別だろう。でも軽い気持ちではとても突破できない。

「穂高さんも、もうやめてやるって思ったこともありますか?」
「それがないんですよ」
穂高さんは笑顔で即答した。
「あー疲れたー、明日はゆっくりしたいなーってときはあるけど、もうやめたいってのはないですね。渡部に引っ張られて、気づいたらここまできてたって感じ。自立生活センターは、やっぱり当事者が引っ張るものなんですよね。どこでもそうだと思います。ねえ、新吾さん?」
 ずっと黙って聞いていた斉藤さんは、話しかけられてニヤリと笑った。
「なに笑ってるの? わたしのこと、意外にまじめだなって思った?」
「まあね、ハハッ」
「ハハハッ」

斉藤さんは茨城のつくば、穂高さんは北海道の北見にいながら、ふたりは同時に笑い声を立てた。東京からオンライン取材をしていたわたしはただひたすら自立生活センターすげえ、と思っていた。

次回いよいよ、わたしは斉藤さんに会うことになる。オンラインで顔を合わせるだけの関係から一歩前進。パラグアイまではまだ遠い。

※登場人物の年齢、肩書きは取材時(2021年秋)のものです。その後、自立生活センター北見は解散しましたが、穂高さんは現在も自立生活センターに関わり、人材育成などに従事しています。

著者プロフィール
金井真紀

1974 年、千葉県生まれ。文筆家・イラストレーター。著書に『パリのすてきなおじさん』(柏書房)、『テヘランのすてきな女』(晶文社)、『世界はフムフムで満ちている』(ちくま文庫)、『聞き書き 世界のサッカー民 スタジアムに転がる愛と差別と移民のはなし 』(カンゼン)、『日本に住んでる世界のひと 』(大和書房)、『おばあちゃんは猫でテーブルを拭きながら言った 世界ことわざ紀行』(岩波書店)など多数。「多様性をおもしろがる」を任務とする。難民・移民フェス実行委員。