スリルを味わう権利
その後も斉藤新吾プレゼンツ・介助者リレーインタビューは続いた。
わたしが知らなかっただけで、この国には自立生活センターが120も存在するのだ。関わる人の数だけドラマがある。毎回わたしはzoom画面にずんずん前のめりになった。
自立生活センターの規模は大きかったり小さかったり、まちまちだ。もちろん人が多い都市部のほうが組織はつくりやすい。でも「え、そんなところにも!」と驚く田舎町や離島にも自立生活センターはあった。それがまた興味をそそるのである。
伊藤健太さんが働く自立生活センターは、全国で唯一(市ではなく)町にある。かつて最上川沿いの水運の拠点として栄えた山形県大石田町は、この半世紀で人口が半減した。
「そもそもこのあたりでは障害者を見かけないんですよ」
「あぁ」
わたしはわかったふうな顔で頷いた。人口減少が進む土地では障害者も少ないのだろう、と思ったのだ。でもそういう意味じゃなかった。
「なにしろ雪が2メートルも積もりますからね。12月から4月下旬くらいまであたり一面まっしろです。車椅子で出歩けない。電動車椅子でもタイヤが空回りしちゃうんですよ」
豪雪地帯にだって障害者はいる。だけど家の外にはなかなか出られない。障害者が可視化されない地域なのだ。地元出身の伊藤さんも障害者と関わることがないまま大人になったという。
「今だから言うんですけど……幼い頃なんて障害や福祉なんて「他人事」ですから完全に見た目で判断していました。たとえば言語障害があって意思疎通が円滑にいかない方は何を考えて生きてるんだろう? ただ生かされているだけじゃないのか? なんて思ってた」
伊藤さんのものすごく正直な告白に、こちらはちょっとドギマギした。でも伊藤さんはほがらかに続ける。
「10代の頃はぜんぜんちゃんと考えてなかった。その反動でハマったんですよね、この仕事に。自立生活センターの仕事をして、自分の考えがいかに現実と違っていたか思い知りました」
伊藤さんはひと学年が20人ちょっとの田舎の学校で育った。
「小中学校ほとんどメンバー変わらず、家族みたいな感じでしたね」
ガキ大将タイプだったのかと尋ねると、「いや、喧嘩が起こると「机どかせー」って盛り上げるタイプ」だって。わは、そういう男子いるね。勉強はきらいで、高校時代は野球三昧。「朝練して、授業サボって家に帰って、また放課後の練習に参加するような野球バカ。ポジションはキャッチャー」とか。言われてみれば30代のいまも溌剌としていて、なんとなく野球部っぽい。
「高校3年の大会が終わって、つぎはDJを始めたんです。DJってレコードをたくさん買わなきゃいけないんですよ。ちょっとバイトしたぐらいじゃ追いつかない。だから老人介護の仕事を始めました」
じつは老人介護の仕事には幼い頃から憧れがあった。それはお母さんの影響だ。同居していた父方の祖母が寝たきりになり、お母さんはその介護に明け暮れたらしい。
「それがすんごく楽しそうだったんですよ」
「へーえ」
思わず驚きの声が出てしまった。寝たきりの姑の介護を「すんごく楽しそう」にやったお母さん、すごい。それを見た息子が進路を決めるくらいだから、お母さんとおばあちゃんの介護する/される関係はさぞ気持ちのいいものだったのだろう。
伊藤さんは老人介護施設で3年間働き、そのあと仙台に出てDJ活動に勤しみ、また地元に戻ってきた。そして就いた仕事が「自立生活センターほっとらいふ」の介助者だった。ほっとらいふは2005年に梅津洋治さんたちが立ち上げた、田舎町の小さな小さな自立生活センターだ。
「うちの代表、熊みたいでかわいいんですよ。ぼくより40歳くらい年上で、訛りが激しい。語尾に「にゃ」って付ける。「これマウスだよにゃ?」とかね。かわいいし、やさしいし、すごい人です」
もともと梅津さんは大工さんだった。ところが16歳のとき雪が積もった現場で高所から落下、頸椎を損傷した。以来、胸から下がまったく動かない体となった。30年ほど施設で暮らしたあと、自立生活センターを知って一人暮らしに踏み切ったらしい。
「梅津さんは「自立したい。これがやりたい。これはやりたくない」っていうのがすごくはっきりしている。最初に介助した当事者が梅津さんじゃなかったら、ぼくはつまんなくて続けてなかったかも。あらゆることを1から教えてもらいました」
伊藤さんがかつて勤めた高齢者福祉の現場にあったのは「介護」だった。何もかも先回りして注意を払い、当事者に安全に過ごしてもらうのが仕事。でも自立生活センターの「介助」はそれとはまったく違う。たとえ目的地が右にあっても、当事者(障害者)が「左に行きたい」と言ったら介助者は左に連れて行くべし、と習う。
「最初ぼくはそれがわからなくて。「左に行くと違うところに出ちゃいますよ。右に行くのが正解ですよ」と言いたくなっちゃうわけです。でも代表に相談したら「本人が左にいぎたがってんだがら、いがせて、失敗とわがったら右に行けばいい」って」
伊藤さんは梅津さんの訛りを再現してほほえんだ。障害者が自分の要望をはっきり言って、それを実行する。それが自立生活センターの根っこだ。伊藤さんは「これはほかのセンターで聞いたはなしですけど」と言ってさらに介護と介助の違いがわかるエピソードを教えてくれた。
階段と並行してスロープが付いている歩道橋がある。自転車を引きながら歩道橋を渡る人のためのスロープだ。あるとき電動車椅子の利用者が「ここをあがってみよう」と言い出した。
「介護職員だったら絶対止めますよね。危ないですもん。でも介助者は黙ってニコニコしながらそれを見ているんですよ。やってみて、もし怖かったら本人が「やっぱりやめる」って言うだろうからそれを待つ」
Zoom画面の向こうで斉藤さんがニヤニヤしている。たしかに電動車椅子でスロープをぐいーんとのぼったらスリル満点で楽しそうだ。きっと車椅子の種類によって、天候によって、のぼれる坂とのぼれない坂があるだろう。それが判断できるのは、近づいて試してみた人だけだ。わたしは大きくうなずいて言った。
「気になったら試してみたい。ちょっとした冒険をしてみたい。これは誰もがもつ感覚ですもんね」
伊藤さんも勢い込んで答える。
「そうですそうです。それを止めるのはおもしろくないですもんね。ぼく最近はもう「おもしろいか、おもしろくないか」で決めるようになってきてます」
あぁ、いいなぁ。せっかく生まれてきたのだから、おもしろいことがたくさんあるほうがいいに決まっている。どんな人だってスリルを味わう権利はある。
「そうやって生きる障害当事者の姿を、地域の人にどれくらい見てもらえるか、わかってもらえるかが勝負だと思っています。とにかく雪がない時期がチャンス。車椅子で外に出られる季節は短いですから」
伊藤さんは昔の自分に言い聞かせるように、ゆっくりと言った。
「障害者は生かされているだけなんじゃないか、なんて思っている人を少しでも減らしたいんです」
1974 年、千葉県生まれ。文筆家・イラストレーター。著書に『パリのすてきなおじさん』(柏書房)、『テヘランのすてきな女』(晶文社)、『世界はフムフムで満ちている』(ちくま文庫)、『聞き書き 世界のサッカー民 スタジアムに転がる愛と差別と移民のはなし 』(カンゼン)、『日本に住んでる世界のひと 』(大和書房)、『おばあちゃんは猫でテーブルを拭きながら言った 世界ことわざ紀行』(岩波書店)など多数。「多様性をおもしろがる」を任務とする。難民・移民フェス実行委員。