車椅子の斉藤さんとパラグアイへ

第8回

まかりまちがって結婚

2024年12月14日掲載

東北の小さな町の翌月は、沖縄の石垣島とzoomをつないだ。金城歌織さんと斉藤さんは「お久しぶりです」のあと、「最近どうすか?」「コロナ対策がたいへんですねー」と言葉を交わしていた。ウイルス出現から2年が経ち、「第6波」と呼ばれる大きな流行が全国を席巻している頃だった。障害者と介助者はとても近い距離にいるから、コロナ対策にはさまざまな困難が伴う。医療設備が限られている離島の場合なおさらだろう。

「でね、今日はこの金井さんに、歌織さんの話を聞き出してもらおう思って。それで本を書いてもらおうと思ってるんですよ」
 斉藤さんが話を切り出すと、歌織さんはニヤニヤ顔で答えた。
「ふふ、おもしろそうですね。この世界の人間は、ちょっと頭がおかしいですからね」
「自分からそう言ってくれると話は早い」
斉藤さんもニヤニヤしている。

自立生活センターで介助の仕事を始めて16年経ちます、と自己紹介をした歌織さんに幼少期から順を追って話を聞こうとしたら、
「わたし、子どもの頃からあんまり人に興味がなくて」
サラッと言うから、わたしはそこでちょっと立ち止まった。なるほど、人に興味がないタイプが介助職に就くパターンもあるのだ。人と仕事の組み合わせは幅があっておもしろい。

歌織さんは那覇で生まれ育ち、中学を卒業すると10代後半から25歳まで水商売をしていた。
「ずっとやる仕事でもねーなー、そろそろカタギになろうと思って、ホームヘルパー2級の資格を取りました。とりあえず簡単そうってだけで選びました。2、3ヶ月の講座を受けて、レポート提出すれば取得できるやつ」

現在は「介護職員初任者研修」という名称に変わったその資格をひっさげて就職活動をした歌織さんだったが、未経験者だとなかなか雇ってもらえない。2、3件断られたあとやっと採用されたのが宜野湾市にある自立生活センター・イルカだった。「第一印象はどんな感じでしたか」と尋ねたら、「あ、障害者だ! って思いました」と返ってきて、わたしは思わず吹き出した。斉藤さんもzoomの向こうでゲラゲラ笑っている。

「だって面接を受けに行ったら電動車椅子がビューンとこっちに向かってきたんですよ。あれ、初めてだとびっくりしますよねー」

歌織さんはそれまでの人生で障害者とは無縁だった。
「いなかったよね、夜の世界に障害者は。お客さんの中には軽度の人がいたかもしれないけどホステスで車椅子の子なんていないし。だから世の中にこんなに障害者がいるなんて知らなかった」

イルカは沖縄県でもっとも歴史のある自立生活センター。採用された歌織さんはまず1ヶ月程度の研修を受けることになった。その中身が「なにもしないをする」だって、ぶっとんでいる。

「事務所に行くと「そこに座ってて」と言われるんです。黙って座っているのってなかなかできないです。途中で「なんかやることありますか?」って訊くんだけど「ううん、ないから座ってて」って。それを1ヶ月近くさせられるんです」

「なにもしないをする」は自立生活センターの介助者に求められる大事な資質なのだとか。研修期間中、歌織さんは事務所に置いてあった青い芝の会の本を読んで時間をつぶした。

「青い芝もそのとき知って、すげー過激だなこの人たち、おもしろいかも、と思いました。今はもう「なにもしないをする」研修はやっていないみたいだけど、16年前はそんな感じでしたね」
淡々と言った。そう、歌織さんのテンションはけっして高くない。

晴れて介助者として働き始めた歌織さんは、さまざまな局面を体験してきた。当時、沖縄は他県に比べてノンステップバスの普及が遅く、イルカのみんなは車椅子でせっせとバスに乗った。「障害のある人もない人も共に暮らしやすい社会づくり条例」の制定を県に求めて沖縄本島を縦断する長距離行脚をおこなったりもした。もちろん日々の介助は地味な試行錯誤の連続である。

さまざまな経験を重ねつつも、歌織さんは自立生活センターに魅了されたわけではないと言い切る。
「この仕事に人生を賭けようとか、そんなふうに思ったことは一度もないですねー。ずっと続けたいかどうかもわからないです。とりあえず身を委ねているって感じ」

6年前に沖縄本島を離れ、石垣島にある自立生活センターに移った。転職の経緯を尋ねたら、予想外の答えが返ってきた。
「まかりまちがって結婚しちゃったんですよ、石垣のセンターの代表と」
「え?」
歌織さんはちょっと照れた顔をして、でもやっぱり淡々としている。

石垣島で自立生活センターの代表をつとめる金城太亮(たいすけ)さんは沖縄本島出身の重度障害者。生後5ヶ月で脊髄性筋萎縮症という筋力が低下する病気だと診断され、5歳から22歳まで施設で暮らした。そのあと自立生活を始め、イルカのスタッフに。歌織さんの同僚だったのだ。
2012年、石垣島に自立生活センターをつくることになり、代表として派遣されたのが太亮さんだった。たった一人、石垣島に移住したのだ。呼吸器を付けて24時間介助が必要な体で。

「はー、すごいですね、その人事異動」
「彼は当時30歳くらいで、若さを買われたんですかねー。呼吸器を付けてる人間が一人暮らしをするなんて島では初めてのケースですから、それがもう「運動」なんですよね。行政も病院も対応せざるを得ないでしょ」

太亮さんは「半年がんばってこい」と言って送り出されたのに、石垣島に暮らしてもう10年が経つという。6年前から歌織さんが合流した。

わたしはとても控えめに質問した。つもりだけど、あとから録音を聞くと根掘り葉掘りの芸能リポーターみたいだった。
「どういうきっかけで知り合ったんですか?」
「ふつうに職場結婚です。飲みに行ったりしてるうちに」
「飲み会で仲良くなった?」
「よくみんなで飲んでたんですよ」
「気が合ったんですか?」
「そうなのかな。どこが好きなのか、今も模索中です」
「太亮さんが歌織さんのことを好きになったんですかね?」
「なんでしょうねー、なんか盛り上がっちゃったんですよね、よくわからないけど」
「じゃあ、最初のころは宜野湾と石垣島で遠距離恋愛を?」
「うん」
「休日に石垣まで会いに行ったりして?」
「うんうん」
「それで、もう一緒になろうと?」
「結婚と同時にわたしも石垣島に引っ越してきました」
「決め手はなんだったんですか?」
「年も若くなかったんで。焦ってたのかなぁ」

やりとりを黙って聞いていた斉藤さんがそこで口を挟んだ。
「焦ってたって、障害者はあかんやろ」

そのツッコミに歌織さんは「あはは」と明るい笑い声をあげた。障害者ジョークにどう反応していいのかわからず、わたしは曖昧に受け流す。

一人から始まった石垣島の自立生活センターは、男女合わせて9人の利用者(障害者)、二十数人の介助者がひしめく規模となった。歌織さんは太亮さんと二人三脚で離島の自立生活センターを切り盛りしている。みずからも介助に入りながら、新人を雇用したり、仕事を振り分けたり、職員の悩みを聞いたりと忙しい日々を送っているらしい。

「さすがに就職希望者に「なにもしないをする」をやらせる余裕はないんですけどね。でも面接の時点でなんとなくそのへんを見極めています。張り切ってる人は採用しないかな」
と歌織さんが言うと、斉藤さんがうれしそうにうなずく。
「それは鉄則ですねー」

張り切ってる人は採用しないのが鉄則! 興味津々で前のめりになるわたしにふたりが説明してくれた。
「福祉を勉強してきた人やほかの施設でヘルパー経験がある人ほど、この仕事に向かないんですよ」「そうそう。そういう人は「物言う障害者」に慣れてないから」
「福祉の学校では、酒飲んでタバコ吸って夜遊びする障害者の介助のやりかたなんて教えないもんね」
「ははは」

その会話を聞きながら、だんだんわかってきた。なぜ自立生活の介助者に「なにもしないをする」訓練が必要なのか。介助者は先に動いてはいけないのだ。歌織さんは「誘導」ということばを使った。

「障害者が自分で決めるのが大事なのに、それが待てない介助者がついつい答えを誘導しちゃう。結局それって自分が楽になりたいだけなんですよ。介助者は本人がしゃべるまで待たなきゃいけない、なにもしないでね」

なるほど、たしかにそれは訓練しないとできないことかもしれない。人間には、もちろんわたしのなかにも、よかれと思って言いたくなってしまうエゴが充満している。

ふと気になって尋ねた。
「夫婦だとどうですか?」
「夫婦のあいだでは意見を言いますよ、もちろん。相手が障害者とか関係ないですからね」
「喧嘩もしますか?」
「バッチバチですよ」

そ、そうか、バッチバチか。

※金城さんご夫妻は2022年に石垣島を離れ、現在は沖縄県名護市でヘルパー事務所「合同会社たいたい」を運営している。

著者プロフィール
金井真紀

1974 年、千葉県生まれ。文筆家・イラストレーター。著書に『パリのすてきなおじさん』(柏書房)、『テヘランのすてきな女』(晶文社)、『世界はフムフムで満ちている』(ちくま文庫)、『聞き書き 世界のサッカー民 スタジアムに転がる愛と差別と移民のはなし 』(カンゼン)、『日本に住んでる世界のひと 』(大和書房)、『おばあちゃんは猫でテーブルを拭きながら言った 世界ことわざ紀行』(岩波書店)など多数。「多様性をおもしろがる」を任務とする。難民・移民フェス実行委員。