障害者はPayPayが基本っす
2021年10月末、いそいそとつくばエクスプレスに乗りこんだ。今日ついに「生」斉藤さんに会う。オンラインも便利でいいが生で会うのは格別だ、ビールだって牡蠣だってやっぱり生はいいもんね、とわたしは浮かれていた。ほんの3ヶ月前、斉藤さんから初めて連絡をもらったとき(連載第1回参照)は「なにやつ!?」と警戒し、オンラインの会話だけで済まそうと腰が引けていたのに。我ながら大した変わりようだった。
この時期、つくば市民ギャラリーで柴田大輔さんの写真展が開かれていた。被写体は斉藤さんが運営する「つくば自立生活センターほにゃら」の人たち。わたしは写真展を見に行き、そこで斉藤さんに会う計画を立てたのだった。
つくばの空は広い。しかも秋晴れ。わたしは足取り軽く大きな公園を横切った。ガラス張りのギャラリーに足を踏み入れた途端、10メートルくらい先からモーター音がこちらに向かってきた。
グイーン!
おー、かっこいい。思えばわたしの人生で、電動車椅子をまじまじと観察するのは初めてだった。右の肘掛けに棒状のレバーが付いていて、それで操作しているようだ。車椅子はわたしの前にピタリと止まった。その動きは馬術の達人の巧みな手綱捌きを思わせた。
「こんにちは」
馬上の、いや椅子上の男性が言った。これまでパソコン越しに何度も聞いた、気負いのない朗らかな声。
「あぁ斉藤さん、こんにちは」
「わざわざつくばまで、ありがとうございます」
斉藤さんがぴょんっと右腕を出した。ほんの一瞬、たぶん0.5秒くらい、わたしは反応が遅れた。あ、そうか、これは握手の合図だ。と気づいて慌てて斉藤さんの右手を握る。その手のひらはひんやりとして柔らかい。握力がない人との握手は初めてだったけど、うまくできてホッとした。
そのあとわたしは柴田大輔さんの写真展をゆっくり鑑賞した。1枚の写真にひとりかふたり、障害をもつ人や介助をする人がモデルとなって写っていた。みんないい顔だ。外で撮られた写真も多く、地域に溶け込んで暮らしている様子が伝わってくる。どの写真ものびのびして……
「わっ」
展示の最後のほうに、異色の1枚があった。
衣服、本、灰皿やマグカップが雑然と置かれた室内で、車椅子のおじさんがこちらを睨みつけている。さらに目を引くのは、おじさんの背後に掲げられた大きな横断幕だった。そこには墨痕あざやかに手書きの文字が記されていた。
一、自らが障害者である事を自覚する。
一、強烈な自己主張を行なう。
一、安易な問題解決の路を選ばない。
一、愛と正義を否定する。
見る人の心をぶん殴るようなパワーフレーズ。全世界に向かって挑みかかるようなおじさんの眼差し。わたしはしばらくその写真の前から動けなかった。
展示を見終えて斉藤さんのところに戻ると、わたしは真っ先に質問した。
「あ、あの、怖いおじさんの写真はなんですか?」
「アハハ、あれね。里内さんて人です」
斉藤さんによれば里内龍史さんは脳性麻痺で、かつて茨城県にあった障害者コロニー「マハラバ村」の残党で、「茨城青い芝の会」の会長だ、とのこと。
「青い芝の会って、あの川崎バス闘争の?」
わたしは脳の片隅に引っかかっていたワードを引っ張り出した。1970年代、路線バスからくりかえし乗車拒否されていた車椅子の脳性麻痺者が川崎駅前に集結し、無理やりバスに乗り込んで占拠した。あのぶっとんだ障害者運動をやったのが「青い芝の会」だったはず。
「そうそう。ざっくり言うと里内さんはその流れを汲んでいる人です」
斉藤さんは自分でもざっくり言い過ぎだと思ったみたいで、おかしそうに笑った。
青い芝の会は、脳性麻痺の人が差別と闘うためにつくった組織だ。赤ちゃんのときに脳に傷を負った脳性麻痺者たちは、手足や口をスムーズに動かすことができない。そういう彼らが車椅子ごと介助者に抱えられてバスに乗り込み、顔を歪めてしぼり出すように訴え、変形した体を路上に転がした。川崎バス闘争は、バリアフリーなんて概念がなかった時代のとんでもなく過激なレジスタンスだった。当時の映像を見ると、バス会社の人も乗客たちも、思いっきり迷惑そうな顔をしている。
後日知ったが、里内さんの背後に掲げられたビンビンにとんがった4項目のスローガンは「青い芝の会」の行動綱領だった。日本の障害者運動史に残る事件は、現在と繋がっているのだ。
「ま、青い芝の考えと、ぼくらがやってる自立生活センターの考えかたはまたちょっと違うんですけどねー」
斉藤さんは穏やかに言った。その口調には、この件は詳しく話すと長くなるからおいおいお伝えしましょう、という含みがあった。そうだ、わたしは今日初めて生身の斉藤さんに会ったのだ、これからたくさんのことを教えてもらうのだ、とワクワクした。
「金井さん、時間あります? コーヒー飲みに行きましょうか」
「お、いいですねぇ」
わたしたち――わたしと斉藤さんと介助者の3人――はカフェに向かった。大きな通りを渡って、歩道をグイーンと進む。騎兵ひとりに歩兵ふたりって感じだな、と思った。
カフェではのんびりとお互いの近況を話した。細かい内容はおぼえていないが、斉藤さんは構えたところがない人でどんな話題でもいけるタイプだとなんとなくわかった。たぶん向こうもわたしのことをそう思っただろう。
印象に残ったことがふたつある。
4人がけのテーブルにわたしと斉藤さんが向かい合って座り、斉藤さんの横に介助者が座った。介助者は、斉藤さんが目で合図を送るとその口にコーヒーカップを運ぶ。余計なことはしゃべらない。わたしの頭の中に、疑問が去来した。
「ええと? わたしは斉藤さんの方だけ向いて話せばいいのか、介助者にも話を振るべきなのか?」
3人でテーブルを囲んでいるわけだから、3人で会話を進めるのが自然な気がする。でも自分の意志でカフェに来ておしゃべりしているのは斉藤さんとわたしのふたりであって、介助者はあくまで「仕事中」なのだ。いちいち話を振られたら煩わしいかもしれない。正解はわからぬままだった。じつはあれから3年を経てこの原稿を書いている現在も正解はよくわからない。斉藤さんと話をするときわたしはいつも、横にいる介助者を完全に無視するでもなく、といって強引に会話に引きずり込むでもなく、曖昧な感じで着地させている。
もうひとつはお会計のとき、斉藤さんが電子マネーPayPayで払ったことだ。斉藤さんの指示を受けた介助者が、斉藤さんのカバンから財布を取り出し、その中からPayPayカードを抜き取って、読み取り機にかざした。3年前はまだまだ現金払いが主流で、わたしの身のまわりで電子マネーを使う人はほとんどいなかった。驚くわたしに、斉藤さんは得意げに言った。
「障害者はPayPayが基本っす」
お札を数えたり小銭を出し入れするのがむずかしい障害者にとってPayPayは便利だ。障害がある人は、不便ゆえに、便利なものをいちはやく取り入れる。ということをそのとき知った。斉藤さんはうれしそうに付け加えた。
「PayPayはね、飲み会で割り勘するときも便利なんスよ」
1974 年、千葉県生まれ。文筆家・イラストレーター。著書に『パリのすてきなおじさん』(柏書房)、『テヘランのすてきな女』(晶文社)、『世界はフムフムで満ちている』(ちくま文庫)、『聞き書き 世界のサッカー民 スタジアムに転がる愛と差別と移民のはなし 』(カンゼン)、『日本に住んでる世界のひと 』(大和書房)、『おばあちゃんは猫でテーブルを拭きながら言った 世界ことわざ紀行』(岩波書店)など多数。「多様性をおもしろがる」を任務とする。難民・移民フェス実行委員。