ふたりの読書会

この連載について

書評家のワコさんと大学生のリリ。三〇歳も年の離れた、二人きりの家族。
親子のようで、親友のようで、そのどちらでもない。
二人は、いくつもの本を通して日々揺れ動く気持ちを伝えあう。
白い蝋燭に火をともしたら、二人きりの読書会が始まる。
ゆっくりと心が満ちていく読書の時間へ──。

第11回

その子二十(はたち) 前編

2025年11月10日掲載

 コンビニで牛乳を買おうと歩いているとき、ああこの香り、とリリは思う。金木犀だ。住宅街の道にそこはかとなく漂うその香のみなもとを探ろうと顔を上げた。生け垣や塀の内側から小さな淡いオレンジ色の花を咲かせている木を見つけると、ふわりと嬉しくなる。金木犀の香りに包まれた世界の中にいるってすてきなことだ。

 と、肩から斜め掛けしていたサコッシュの中からスマートフォンの呼び出し音が鳴り出して、リリは驚く。本来電話なのに、普段は電話以外の用途でしか使わないので。こういう、突然かかってくる電話って、きっとわずらわしい勧誘とか詐欺の類いだろうとけげんな心持ちでスマートフォンを取り出すと、「貴文おじさん」という文字が画面に表示されていた。

「あ、おじさん……!」

 あわてて電話に出ると、「ごめんね、急に電話をかけて」とおだやかな声がリリの耳に響いた。

「今、大丈夫?」

「はい、大丈夫です。近所をぼんやり歩いてました」

「そっか、今日は仕事でリリの家の近くに来ててさ、今、ぽっかり時間ができたから、ちょっと会えたるするかなあと思って」

「うん、いいよ。今日はワコさんも家にいるし」

「家にいるっていっても、仕事をされているんだよね。いきなりお邪魔したら悪いよね」

「うーん、仕事はしてるかな。じゃあ、私もちょうど今外に出てるし、近所の喫茶店でどうかな」

「ああ、いいね」

 リリが貴文に駅前の喫茶店のURLをショートメールで送り、二人はそこで落ち合うことになった。ショートメールを送ったあとで、ジャージ素材のパンツの上にグレーのパーカーをざっくり羽織っただけの自分の格好が気になった。パーカーの下はイラストが描かれた長袖のTシャツである。久しぶりに伯父さんに会うのに、めっちゃラフな格好すぎるけど、まあ、突然のことだから仕方ないか、とも思う。

 喫茶店に先に到着したリリは、せめてもと、トイレで長い髪をささっと手ぐしで整えた。

 貴文は、紺色のスーツ姿で現れた。杏子の葬儀とそのあとに数回会っただけなので、お互いに記憶があやしかったが、貴文の方が先にリリに気付いて声をかけた。ちょっと白髪が増えたかな、前からこのくらいだったかな、とリリは思う。

 二人ともコーヒーを注文したあと、しん、となった。

「えっと、今日は、なにか、用事があったりとか……?」

 リリがおもむろに切り出した。

「ああ、いや、ほんとに電話で言ったように、近くに来たってだけなんだ。元気にしてるかなあって」

「あ、はい。ありがとうございます。おかげさまで、元気にしています」

「和子さんも……?」

 リリは一瞬、誰? と思ったが、ワコさんの本名だったとすぐに思い出した。

「はい、元気です。このところちょっと忙しそうですけど」

「ただの友達だったのに、すっかり世話をかけてしまって、悪いと思ってる」

「うん……」

 貴文が言っていることはしごくまともなことなんだろうと思いいつつ、「悪い」って、なんだろうと、リリはもやっとする。

「私、ワコさんと一緒に暮らせて、よかったと思ってる。すごく。楽しいし、勉強になる。一緒に読書会したり」

 銀縁のメガネの下で、貴文がなんどかまばたきをした。

「読書会?」

「うん。同じ本を読んで、感想を言いあったりとか」

「すごいな。仕事でさんざん読んでるだろうに」

「確かに」

「俺にはできないことをやってくれて、頭が下がるな……」

「ワコさんと本の話をするのは、すごく楽しい。友達と話してるみたいだし、ワコさんも、楽しそうだよ」

「そうか。あの杏子と友達でいてくれた人だからな」

「あの、っていうのは……?」

 リリが少しけげんな表情を浮かべたことに気付いて、貴文は、いやいや、深い意味なんてないよ、とごまかすように少し笑った。

 貴文と杏子は、母親の違う兄妹だということをリリは知っていた。両親が離婚して母親の元で育った貴文は、杏子と一緒に暮らしたことはなかった。しかしときどき父親と面会していて、その新しい家族といっとき過ごすことはあった。

「リリくらいの頃、杏子もそんなふうに髪を伸ばしてたよ」

「そうなんだ。私の知ってるママは、ショートカットだけだよ」

「リリを産むまでは長かったんだよ」

「おじさん、ママと仲良かったの?」

「そうだなあ、たまに会うだけだったから距離感はあったけど、同志みたいには思ってたかもな。お互い、なんというか、不安定な家にいたひとりきりの子どもだったからね。杏子からときどき連絡もらったよ。ちょっとぶっきらぼうな感じで、大学受かったとか、近況報告的に。リリのことは、産まれてから教えてもらったから、すごくびっくりしたよ。結婚してもいなかったし。父親が誰かも教えてくれなかったしなあ。一人でちゃんと育ててみせるって言うだけで。父親のこと、リリも、知らないんだよな」

「うん」

「ワコさんは、なにか知ってるんじゃないのか?」

「ううん、知らないみたい。ワコさんはそういうことを訊き出すような人じゃないし。気にしてないっていうか」

 貴文が、そうかそうか、と小さな声でつぶやくのを、リリはしみじみと見つめた。貴文の父親、つまりリリの祖父にあたる人はすでに他界している。貴文の母親も昨年亡くなった。杏子の母親とは連絡が取れないままである。リリにとって貴文は、連絡のとれる唯一の親族なのだ。

「リリは、いくつになったんだ?」

「来月で、二〇歳になる」

「おお、二〇歳か。〝その子二十(はたち)(くし)にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな〟だな」

「それ、どこかで聞いた気がする」

「与謝野晶子の短歌だよ。杏子が教えてくれたんだ、二十歳のお祝いを言ったとき、こんな短歌があるって。だから二〇歳の今は髪を伸ばしてるんだって」

「え、初耳! 好きだったのかな、与謝野晶子」

「知ってたか、与謝野晶子」

「知ってるよ。高校のとき、髪の毛が纏まらなかったら〝よさってる〟って言ってた子がいたよ」

「よさってる?」

「『みだれ髪』っていう歌集を出してるから」

「うまいこと言うな」

 愉快そうに貴文が笑い、目尻へ豪快に皺が寄った。笑うと目がママとそっくりだ、と思い、思ったことで胸の奥がチクリとして、リリはすぐに目をそらした。

「え、貴文さんと会ったんだ。家にも寄ってもらったらよかったのに」

 ワコさんが残念そうに言った。

「ワコさんも忙しいだろうから急に行くのは悪いって」

「なにか用事だったの?」

「とくになくて、ほんとに近くに来たから声をかけただけみたい。与謝野晶子の話をちょっとしたよ」

「へえ、なんで?」

「えっと、二〇歳の黒髪がどうとかいう短歌を突然暗唱して」

「ああ、多分あれだね、その子二十(はたち)(くし)にながるる黒髪の〜」

「あ、それ。ワコさんも知ってるんだね。有名?」

「有名、だけど、貴文さんが暗唱までできたのは、ちょっと驚き」

「ママに教えてもらったんだって。その短歌に影響されて二〇歳の頃に髪の毛のばしてたって。髪を伸ばすのにも理由があるのが、ママらしい。私は美容院に行くのがめんどくさくてこうなっただけなのに」

「リリの髪、まっすぐで、とてもよく似合ってる。与謝野晶子も髪の毛には自信があったみたいだよ。〝その子〟と言いつつ、二〇歳である自分のことも含んでるみたいね」

「二〇歳の子が堂々と自分の美しさをうたいあげてるって思うと、逆に清々しいね」

「そうなんだよね、嫌みは感じない。若い女の子全般へのエールに思えるからかな」

「二〇歳の女子全部推し? つまりハコ推しだね」

「え、ハコオシって、何?」

「アイドルとかグループ活動しているその全員をまとめて推してること」

「なるほど。そういえば、晶子にはそのハコ推し感、全体にあるかも。人の美しさやかわいさを愛で、応援するようなところが。こんな歌もあるよ」

 ワコさんは目を閉じ、記憶の中から言葉を引き出していった。

 清水(きよみづ)祇園(ぎをん)をよぎる桜月夜(さくらづきよ)こよひ逢ふ人みなうつくしき

 

「桜が咲き盛っている月の夜に清水から祇園の方へ歩いていると、出会う人みんながきれいに見えたってことで、〝こよひ逢ふ人〟全部推し」

「まさに! ワコさん、一首まるごと暗唱できるのかっこいい!」

「俳句とか短歌って短いから好きになったら作品一つ、まるごと覚えられて楽しいんだよね。好きになれば自然と覚えられるよ」

「覚えてしまえるほど好きになれるの、見つけたいなあ。『みだれ髪』、ちゃんと読んでみよう」

「新潮文庫を持ってるから、貸すね。解説も充実してるし」

「うん。ありがと」

 

 

<引用文献>

与謝野晶子著『みだれ髪』(新潮文庫)1999年刊

掲載ページ p.10、p.13

著者プロフィール
東直子(ひがし なおこ)

広島県生まれ。歌人、作家。
1996年、「草かんむりの訪問者」で第七回歌壇賞受賞。2016年、『いとの森の家』で第三一回坪田譲治文学賞を受賞。
2006年に初の小説『長崎くんの指』を出版。
歌集『春原さんのリコーダー』『青卵』『十階』、小説作品『とりつくしま』『さようなら窓』『薬屋のタバサ』『晴れ女の耳』『階段にパレット』『ひとっこひとり』『フランネルの紐』、エッセイ集『一緒に生きる 親子の風景』『レモン石鹼泡立てる』『魚を抱いて 私の中の映画とドラマ』、歌書『愛のうた』、『短歌の詰め合わせ』、『短歌の時間』『現代短歌版百人一首 花々は色あせるのね』、穂村弘との共著『短歌遠足帖』、くどうれいんとの共著『水歌通信』、詩集『朝、空が見えます』、絵本『あめ ぽぽぽ』(絵・木内達朗)、『わたしのマントはぼうしつき』(絵・町田尚子)、『シマちゃん モモちゃん もりのなか』(絵・松田奈那子)など著書多数。