失敗だらけの文章修業

この連載について

文筆生活29年。失敗からひとつひとつ記事やエッセイの書き方を学んでいった大平さんの七転び八起き。「人柄は穏やか、仕事は鬼」な編集プロダクションのボスの教えから始まる文章修行の日々には、普遍的で誰にも役に立つヒントが満載です。

第7話

推敲のヒントーー‟書き立て”の熱は勘違いしやすい

2025年3月10日掲載


 執筆という仕事は、推敲にいちばん時間がかかるという気がしている。
 私の場合、寄稿やエッセイの依頼のほとんどが、あらかじめ文字数が決められている。そこでまず、与えられた文字数を大雑把な目安として、一度書く。このときは構成や主題、いちばん言いたいこと、リズム、いきおいを大事にして、厳密な文字数までは気にしない。たとえば一〇〇〇文字のオーダーなら、一二〇〇文字くらいだろうか。
 そこから、文字数内で、“納品”といえるまでの精度をあげながら削り、整えていく。この過程が、じつは最初の執筆よりはるかに時間がかかる。文章の書き方に正解や近道はなく、人によって違うので、これはあくまで私の経験論であることをお含みおきいただきたい。
 
 削りながら足すこともあれば、言葉の選択が正しいか辞書で調べたり、もっと適切なものがないか類語を探したり、差し替えたりする。重複、主語と述語のかみ合わせ、わかりやすさ、自分の癖が出すぎていないか、無意識に常套句を使っていないかなどを点検する。よくないことかもしれないが、この段階では誤字脱字や表記の統一(算用数字と漢数字の混在、「きゅうり」「キュウリ」「胡瓜」の混在など)までは気にしない。あくまで内容や言い回しについて、ああでもないこうでもないという試行錯誤を繰り返す。
「起承転結」を、「結起転承」にひっくり返してみたり、「承起転結」を試してみたり。それを、「よし!」と思える精度で文字数内に収められたら、最後に表記や誤字をチェックする。推敲は悩んで頭を使うので、恥ずかしながら、「よし!」が来ると嬉しくて、つい編集者に原稿を送ってしまうこともある。結果、誤字脱字を編集者や校閲者に大量に指摘されるというありさまだが、その話は脇に置き。
 推敲で、私は今でもよくやりがちなのが、「ひとりよがり」病だ。
 
 自分だけわかったつもりになって、書き進めてしまう。すると、説明が足りず、読者は置き去りになる。あるいは、ひとりよがりに「このエピソードが大事」と思い込み、たいして必要でないことを、変に熱く書いてしまう。どれも、自分しか見えておらず、読み手に寄り添っていないがゆえにおきる過ちだ。

 では、そのような客観的なチェックを、どうしたらできるようになるか。
 ひとつは、「よし!」と思えた段階で、少し寝かす方法がをすすめだ。たとえるなら、冷蔵庫に寝かせるようなイメージである。
 本当は、ひと晩冷蔵庫に寝かせたら最高なのだが、締切が続いているとそうもいかない。時間がないときは、午前中に書いて、昼食を挟んだ後に推敲をする。それだけでも、頭が冷えて、わかりづらいところなどが見えやすい。書き終えたときは「なかなかいいんじゃないか」と調子に乗りやすいが、昼食程度でも時間を置くと、拙さに赤面することが多々ある。“書き立ての熱”は人を勘違いさせやすい。
 
 もうひとつの推敲の方法は、音読である。声に出して読むと、不思議とひっかかるところ、読点の違和感、言葉遣いの齟齬にも気付きやすい。おそらく、口と耳を使って音で確認するという行為をはさむことで、脳で考え手から出力した文字への第三者的な距離感ができるからではないだろうか。
 音読すると、リズムの悪いところにも気付ける利点がある。

 この推敲法は誰かに習ったものではなく、自然にたどりついたもので、もしかしたらもっと正しいやりかたがあるかもしれない。推敲について同業者ともほとんど話したことがないので、いつか聞いてみたい。

 文字数を指定されることなく、趣味で書いている人や自分のブログ、SNSなど自由に書ける場所で文章を上達させたいと思っている人には、とっておきの練習法がある。
 自分で文字数を決めるという方法だ。

 仮に四〇〇字と決めて、毎回同じ文字数で書くと、構成力がつく。どのくらいのボリュームが、起承転結の「起」にあたるか、まとめの文章のためにどれくらい残しておけばいいか。本来、構成の配分を四角四面に決めることはおろかだが、文章を学びたいと思っている段階では、トレーニングとして有効だろう。
 一〇〇〇字でも二〇〇〇字でも、書きやすい分量でよい。同じ文字量の中でさまざまな書き方を試せるのも利点だ。書き分けの技術が身につく。

 ここまで書いてふと思い出したのだが、中学校三年間、担任の先生が「おおぞら」という学級だよりを、毎日発行していた。「生活記録」という日記が、毎日の宿題になっていて、そこからいくつか選ばれて、先生がガリ版に書き出す。パソコンの出力はない。そういう時代だった。同級生が集まると、いまだに「あの先生の毎日の労力は、すごかったよね」という話になる。
 生活記録はある程度文字数が決まっている。あれを毎日三年間書いたことは大きな訓練になっていたように思う。
『おおぞら』に掲載してもらいたくて、いろんな書き方や文体、テーマで提出した。成績には何も繋がらないが、日々の試みは実り、拙文の掲載率は際立って高かった。「今日のおーだいらの、おもしろかったよ」「大笑いした」「泣いちゃった」……。級友から様々な感想をもらうのが嬉しかった。一度、「あれ、ほんとにおーだいらが書いたの? 本から写したの?」と真顔で聞かれたときは、憤慨するより誇らしさのほうがまさった。
 先生は、卒業式の日、教室でひとりひとりにメッセージを送った。忘れもしない。私へのメッセージは、「おおだいらの生活記録は毎日楽しみだった。批評あり、愚痴あり、母ちゃんの悪口あり、大感激した本や出来事の感想あり。よくもこんなにいろんな書き方ができるものだと感心していたよ」。
 私の結婚披露宴のスピーチで、先生は『おおぞら』の中の一編を読みあげた。卒業後も『おおぞら』を全部保管されていたのだ。14歳の青い自分が詰まっていて顔から火が出そうだったけれど。
 
 Xで人気の投稿者は、たいてい文章がうまい。くる日もくる日も、140字に挑んでいるからだ。制限された文字数内で、あっと目を引くような構成、書き出し、オチを考える。上達しないはずがない。
 今思えば、私の生活記録は、Xのようなものだったのかもしれない。拙いつぶやきをすくいとり、皆の前で褒めてくれた、亡き恩師に自分はちゃんとお礼を言っただろうか。褒められたい一心で無意識にやっていた推敲に、今助けられている。
 

失敗からの教え

文章は、“冷蔵庫でひと晩冷やす“イメージで

著者プロフィール
大平一枝(おおだいら・かずえ)

作家、エッセイスト。1964年、長野県生まれ。編集プロダクション宮下徳延事務所を経て、1995年、出産を機に独立。『天然生活』『別冊太陽』『チルチンびと』『暮しの手帖』などライターとして雑誌を中心に文筆業をスタート。市井の生活者を描くルポルタージュ、失くしたくないもの・コト・価値観をテーマにした著書を毎年上梓。2003年の、古い暮らしの道具を愛する人々のライフスタイルと価値観を綴った『ジャンク・スタイル』(平凡社)で注目される。
主な著書に『東京の台所』『ジャンク・スタイル』『それでも食べて生きてゆく 東京の台所』、『注文に時間がかかるカフェ』『人生フルーツサンド』『正解のない雑談』『こんなふうに、暮らしと人を書いてきた』『そこに定食屋があるかぎり』など32冊。「東京の台所」(朝日新聞デジタルマガジン&w)、「自分の味の見つけかた」(ウエブ平凡)、「遠回りの読書」(『サンデー毎日』)他連載中。