文筆生活30年余。失敗からひとつひとつ記事やエッセイの書き方を学んでいった大平さんの七転び八起き。「人柄は穏やか、仕事は鬼」な編集プロダクションのボスの教えから始まる文章修行の日々には、普遍的で誰にも役に立つヒントが満載です。
本の正しい読みかた
インスタグラムの動画で、イヤホンやヘッドフォンを付けて歩いている人に「今、なにを聴いていますか」とインタビューするだけの動画が妙に好きで、見入ってしまう。おとなしそうな若い女性が激しいヒップホップだったり、私など見たことも聴いたこともないインディーズのミュージシャンの楽曲を熱っぽく語る男の子がいたり。また、年配の人が古いロックとも、若いから最近の曲とも限らない。
突然声をかけられ、不審な顔で足を止めた人の顔が、次第にほころぶ。そうしてたいていみな目を輝かせて、答え始める。
それはそうだよなと思う。外に出てまでして聴きたいものは、自分が好きなものに決まっている。好きなものについて語るのは、誰だって気持ちがいい。
このスタイルで、私は別の妄想をする。
駅のベンチや待ち合わせスポット、あるいは電車の中で本を読んでいる人に「今、なにを読んでいますか」と聴いたらどんなにおもしろいことだろう。とくに車内は、9割以上がスマホを見ている。だからこそ聞きたくてたまらない。どの作家のなにを。どうして今、スマホでなくあえて読書なのですか、と。
私はスマホも見るが、半分意地のようになって車内で本を読むことも少なくない。読書をしている別の人を見るだけで、「よ、ご同胞」と勝手に声をかけたくなる。スマホがない時代には考えたこともない妄想だ。
本の正しい読み方について、最近、これだと思う指南書があった。
『読む人間』大江健三郎著(集英社文庫)である。
2011年に文庫化されて、まもなく買った。つまり15年も前に一度読んでいる。ところどころ赤線を引いて、当時のブログにも読書録までつけている。なのに、たまたま先日読み直したら、愕然とした。目から鱗の連続なのに、なにも覚えていないのだ。
端から端まで、こんなに大切なことが書かれているにもかかわらず、記憶がなにひとつ残ってない。15年前の私はどこを読んでいたのか。おそらく、 “大江を読んでいる私”に、満足していただけなのだろう。
大江さんは、本を読むことによって自分の人生を切り拓いてきたと綴っている。
具体的には、心酔し文体がおもしろいと感じた外国の小説や詩や論文を読み込み、「こういう感じの日本文を作りたいな」と考える。そこから自分の文体、自分の小説を生み出していく。これを意識的に繰り返してきたという。
東大を卒業する際、恩師に「これからのきみは、3年ごとに新しく読みたいと思う対象を選んでその作家、詩人、思想家を集中して読みなさい」と言われたのが大きな契機になっている。こうして彼は新しい文体と言語を獲得していった。
たしかにひとりの作家を3年も読み込んだら、影響されずにいられないだろう。この人の作品についての知識は誰にも負けないという自負は、大きな支えになる。対象を3年ごとに変えていったら、さらに最強だ。シンプルだけれど、文章上達の術を考えたときこれほどたしかな方法はない。
もうひとつ、大江式・本の正しい読み方として、翻訳を例に、次のような習慣を披露している。
本当に良いと思うところ、興味深い、感心した箇所に赤、よくわからないところに青の線を引く。できれば覚えたいという思う言葉は強い線で。長ければ囲んで。
赤青は、私が説明のためにあてはめた色だが、大江さんはどんな色でも、とにかく2種を用意して、線を引きながら読むことを勧めている。
なんとなくここがわからないと線を引いたところは、その都度調べる。翻訳の場合は原文を調べ、忍耐強く辞書を引く。若い頃は、早く先に読み進めたいので、「よくわからないな」と思ったところを飛ばし、続きの文章を追いかけがちだが、辞書を引くのは大事だと繰り返し説いている。
このような読み方を続けていると、自力で読み取る力が付き、原書を読むのも早くなる。2色のペンを駆使しながら本を能動的に味わう読書術は、翻訳書でなくても、利点がたくさんありそうだ。
時々、いい表現だなあ美しい言い回しだなあと感心することがあっても、手を動かさないと、記憶の後ろに流れさっていく。それでも読書は楽しめるだろうが、文章力向上を目的に据えると、2色ペン読書法のほうがはるかに記憶に定着するだろう。
目と手を動かす大江さんの読書姿は、案外忙しそうだなと想像する。
私は、読書の時は、付箋の入った小袋とボールペンを携帯。心惹かれた箇所に線を引いたり、付箋を貼ったり、とくに心震えた表現はスマホに書き写す。長い文章は音声入力で記録するが、どうも手を動かさないと体に入ってこないようだ。
ポジティブとネガティブの気づきを2色で可視化する大江さんの読書術はぜひ取り入れたいもの。
ところで、『読む人間』でもっとも打たれたのは、大切な本だと聞いたので読んでみたが、あまり役に立たなかったと思う本が誰にでもある。しかし長い歳月を経て、その本が光を帯びることがあるから、楽しみにしていてというメッセージである。
現に、私は『読む人間』と15年ぶりに出会い直し、あのときまったく気づかなかったたくさんの尊い学びをもらっている。
じつに幸福な出会い直しの経験であった。”積ん読”にも意味がある。
失敗からの教え
今、響かなくてもいつか刺さる時があるのが本。
出会いの縁をぞんざいにしない
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第1話結婚式前夜の鬼特訓
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第2話人は長文が嫌い
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第3話自慢禁止
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第4話五感を表す言葉と、固有名詞にコツあり
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第5話美文は邪魔になる
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第6話校閲に学ぶ
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第7話推敲のヒントーー‟書き立て”の熱は勘違いしやすい
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第8話「偏り」と「独りよがり」
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第9話きれいや可愛いは、情報ではない
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第10話宇野千代さんの料理エッセイとツレヅレハナコさんのインスタ
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第11話事実確認作業は、書き手の生命線
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第12話仕事の場面での、手紙の効用について
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第13話「で、結局何言いたいの」と自分に問う
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第14話なにをどんなふうに読めば、自分の肥やしになるのか
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第15話齟齬(そご)を生まない仕事スタイル
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第16話推敲の大前提に据える最も重要なオキテ
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第17話文章が散漫になりがちなときの道標(みちしるべ)
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第18話忘れられないあの本棚
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第19話本の正しい読みかた
作家、エッセイスト。1964年、長野県生まれ。編集プロダクション宮下徳延事務所を経て、1995年、出産を機に独立。『天然生活』『別冊太陽』『チルチンびと』『暮しの手帖』などライターとして雑誌を中心に文筆業をスタート。市井の生活者を描くルポルタージュ、失くしたくないもの・コト・価値観をテーマにした著書を毎年上梓。2003年の、古い暮らしの道具を愛する人々のライフスタイルと価値観を綴った『ジャンク・スタイル』(平凡社)で注目される。
主な著書に『東京の台所』『ジャンク・スタイル』『それでも食べて生きてゆく 東京の台所』、『注文に時間がかかるカフェ』『人生フルーツサンド』『正解のない雑談』『こんなふうに、暮らしと人を書いてきた』『そこに定食屋があるかぎり』「台所が教えてくれたこと』など30冊余。「東京の台所」(朝日新聞デジタルマガジン&w)、「ある日、逗子へアジフライを食べに〜おとなのこたび」(幻冬舎PLUS)、「遠回りの読書」(『サンデー毎日』)他連載多数。

