ままならない私たち~生きづらさを身体から考える

この連載について

「前へならえ」と言われたら、すぐにできるように「身体をしつけて」しまった私たちは、いつしか身体の声が聞こえなくなっているのかもしれません。
「小さく前へならえ」ができずに体が硬直してしまった経験のある尹さんと、社会主義国家による身体活動によって尊厳を傷つけられたと感じたグリゴレさん(その後チェルノブイリでの被爆体験も…)。
2人の身体は、自分の意識ではコントロールできない領域で、もっと敏感に色々なことを感じているようです。
自分だけのものだと思っていた「身体の違和感」をもっと見つめてみたら、生きづらさが和らぐかも。
そんな願いから、往復書簡がスタートしました。

01

はじめまして 尹雄大より

2023年9月1日掲載

初めまして。

 こんなふうに書き出しておきながら妙な感じがします。イリナさんとは、まだ実際にお会いしたことがないのは確かではあっても、拙著に推薦文を頂戴したり、SNSで何度かやり取りもさせていただいているからでしょう。初めましてではあるものの、そうでもないような。遠さと近さが同居しています。ともあれ、これからしばらくの間よろしくお願いします。

 さて、この企画は、イリナさんと往復書簡をしてみたいとある日急に思い立ったことが始まりでした。私からの最初の便りですから、ことの発端についてまずは書こうと思います。

 きっかけは、イリナさんの書かれた『優しい地獄』を読んだことにありました。この本に描かれたルーマニアと日本の情景の描きぶりに、「こんな日本語を読んだのは初めてだ」という驚きが読んでいるあいだずっと続いていたのです。もちろん、それは「外国人でありながら日本語が達者だ」というような次元のことではありません。もっと根源的なことです。

 イリナさんの視界があり、捉えている世界があって、その見えている世界の縁にはさまざまに入り混じった感情が滲み出ている。そこに私は魅了されたのだと思います。

 たとえば、今を盛りの花の色についてではなく、いたずらに色褪せていく様子を仔細に描こうしていると感じます。悲傷な出来事を描くにあたっても、ただ繊細であるのではなく、四肢にまで行き渡る力の張り、みなぎりがあると私には思えるのです。その熱量の反面、それ自体を孤独に観ている女性が佇んでいるのをはっきりと認めます。

 キノコや果実酒、古い修道院、草花の匂い、身体につながれたチューブの数々、声を出せないほどの痛み、野良犬、団地の前に開いた大きな穴と動物の死骸。カビの匂い。廊下で踊る少女。それぞれが順序だって書かれているはずなのに、思い出そうとすると脈絡を失う夢の情景のように感じます。それでいて暮らしの隅々に行き渡る記憶がみっしりと詰まって、ルーマニアの現実を堅く構成している。それは私の知らない出来事だらけでした。

 イリナさんの故国は、私にはまるきりの異国です。冷戦時代の最中に成長し、東欧についての国情を社会主義という体制越しにしか捉えていなかった世代です。ですから、ルーマニアと聞くとやはりチャウシェスクという人物で代表させるほかない。そんな表層的な見方に終始していました。

 そうした印象の外に日常があり、それを支える自然があるのは当たり前の話ではあります。制度やイデオロギーがどれほど強く人々を拘束しようとも、そこからはみ出るのが山河というもので、ルーマニアで生きている人にとっては、当然ながら手で触れられる土があり、頬を撫でる風があり、雨にぬかるみ足を取られる日もあれば、同じ土が乾いた日には砂埃として舞う。日々異なった姿を見せる。それが現実でもあるわけです。

 イリナさんの祖父が畑で汗を流し、鍬を担いで帰ってくる。ワインを作り、菊を育てる。そういったことをまるで想像していなかったとページをめくるごとに思いました。

 そうして、ここまで書いておいてチェルノブイルの雲や汚された森を思うと、人為の制度やテクノロジーが自然を覆った現実も厳然とあったと思い至ります。1986年4月、私は高校の国語の授業で、教科書そっちのけでチェルノブイルの原発事故の甚大さについて語った教師の不安げな表情を今でも思い出します。

 『優しい地獄』で描かれている世界は、日本からは遠く離れたルーマニアでの体験も多く書かれており、イリナさんの身体に生じた痛みを伴う体感もあるがゆえに、咀嚼するには難儀するはずです。

 ですが、普段の暮らしの中で、誰もがここでは当たり前のように口にする日本語が用いられているせいでしょうか。綴られている日本語が水のようにすっと身体に染み渡っていくのです。とても不思議でした。ただ、飲み慣れた軟水とは違う味わいではあるのです。見知ったはずの日本語が使い慣れた音をまるで奏でていない。美しい和音の不穏な響き。

 読み進めることは、飲むことをやめられないのにも似て、ごくごくと飲んでいきます。すると満ち足りるのではなく、自分の中に飢えがあったのだということに気付きます。イリナさんはこう書いています。

「私がしゃべりたい言葉はこれだ。何か、何千年も探していたものを見つけた気がする。自分の身体に合う言葉を」

「きっと新しい言葉を覚えたら身体が強くなる。日本語は、私の免疫を高めるための言語なのだ」

「身体に合う言葉」「身体が強くなる」という表現に出会ったとき、この島では誰もが話せて当然と思われている日本語ではあるけれど、その同じ言葉を「違ったもの」として語ることへの、自身の飢餓感に気付いたのです。そのようなものとして日本語を話し、聞き、書きたい。

 あるいは「日曜日、村の古い修道院の礼拝に連れられて、礼拝の音や光を浴びた私の身体が懐かしい」という一節にばったりと出会ったときもそうです。

「懐かしい」で済ますのではなく、「私の身体が懐かしい」というところに、日本語が日本語としてくっきりと立ち上がる姿を見るのです。日本語が日本語によって縁取られている気配を感じるのです。それは日本語が自分の外にあり、身につけるべきものであったという体験なしに生じない感性だと思うのです。

 勝手な想像ではあると思いながら、当て推量を下地にして私の日本語体験について述べます。ある時期を境に、私は「日本語をしゃべっている」という自覚が備わりました。

 私は在日韓国人の三世で、祖父母が半島から渡ってきました。両親とも韓国人ですが、韓国語は話せません。バイリンガルの家庭ではなかったので、体得すべき言語は日本語以外にありません。誰しも生まれたら、自然とその土地の言葉を身につけます。私もまたそうです。

 ですが、決して自然なものにしてはならないという掟が私の中に作られたのです。自然に身につけた日本語を我が身から引き離す感覚は、日本語を自覚的に喋らないと自分の身を守れない。それこそ身体が強くはなれないという切迫さと裏腹でした。そんな捻れた構えをある時期からとるようになったのです。そのときのことははっきりと覚えています。

 私が6歳のとき、十五夜に家族全員で月見をしました。ベランダの一角にススキを備え、三宝に団子を載せといったものです。我が家に限らず、1970年代の日本は、節分になると豆をまき、端午の節句には菖蒲湯、冬至には柚子湯に入りと律儀に年中行事を行うところも多かったと記憶しています。

 いつもは憮然とした表情を浮かべ、何かにつけて怒ることの多かった父がその夜は酒のせいか、珍しく陽気な様子でした。突然、母にこう言いました。「スッカラを持ってきて」。

 手ぶりから、それがスプーンを指していることはすぐにわかったのです。それを父は異語で呼んだ。反芻するように「スッカラ」とつぶやいてみました。それは呪文にも似て、口にした途端、これまで私の中に培われてきた暮らしの光景がガラッと組み変わるのを感じたのです。友だちや近所の人たち、いつも買い物に行く商店街。すべての景色がずれ、それまでの鮮明さが鈍くなるのを感じました。

 同時に盆や正月に親戚が集まって行う祭祀が急に生々しく迫ってきました。チェサと親族はそれを呼び、物心をついたときには、三拝し叩頭する男たちの列に私は加わっていました。

 チェサとは、先祖を供養するための儒教の儀式のことです。私は聞き慣れない言葉もそれまでは方言のように扱い、儀式の後に食べる料理ー真っ赤だったり胡麻油とニンニクの匂いが鼻をつくーをどれも当時の私には口に合わない食べ物としてしか見なしていなかったのです。それは出自を直視するのを避けていたせいかもしれません。ちなみに今は尹という姓ですが、当時は中村という日本名を名乗って暮らしており、だから周囲は私たちを日本人だと思っていたでしょう。しかし、私は日本語しか話せない異国人だということに、満月の夜に気づいたのです。

 日本語とは親密な間柄ではあるけれど、「身体が強くなる」ためにも日本語と私が癒着することを警戒しなくてはいけない。ここで生きていくには、迂闊にも日本語が私そのものであると勘違いしたら弱くなってしまう。それだけではなく、きっとしっぺ返しを喰らうに違いない。例としてふさわしいかわかりませんが、完全にドイツに同化したと思っていたユダヤ人が1933年を境に平手打ちを喰らったように。日本は平和な国なのになぜそんなことを想像する?と思うかもしれません。これについては機会を改めて書くかもしれません。 

 先ほどイリナさんの綴る日本語について「見知ったはずの日本語が使い慣れた音をまるで奏でていない」と述べました。同じものが違ったこととして用いられる。日本語に同化するのではなく、日本語を異化する。これはコミュニケーションの可能性につながるのではないかと思います。

 「生きづらい」がこの島で強い共感を得ています。確かに苦しい状況はあるでしょう。一方でそれは聞きなれた、見慣れた通りに日本語を自覚なしに用いている状態ではないかと思うのです。

 生きづらさという閉塞した時代という感覚を多くの人が共有している中、同じ言葉を別の形で用いるとき、互いが抱えている困難さを「生きづらい」という慣れた言葉に委ね、同化させるのではなく、解き明かす共通言語として働かせることができるのではないか。そんなことをイリナさんの書かれた本から感じています。

著者プロフィール
尹雄大 × イリナ・グリゴレ

尹雄大(ゆん・うんで)
1970年、神戸市生まれ。テレビ制作会社勤務を経てライターになる。主な著書に『つながり過ぎないでいい』『さよなら、男社会』(ともに亜紀書房)、『異聞風土記』(晶文社)、『体の知性を取り戻す』(講談社現代新書)など。身体や言葉の関わりに興味を持っており、その一環としてインタビューセッションを行なっている。

イリナ・グリゴレ
1984年ルーマニア生まれ。2006年に日本に留学し、2007年に獅子舞の調査をはじめる。
一時帰国後2009年に国費留学生として来日。弘前大学大学院修士課程修了後、東京大学大学院博士課程に入学。主な研究テーマは北東北の獅子舞、日本で生活する女性の身体とジェンダーに関する映像人類学的研究。現在はオートエスノグラフィー、日本における移民の研究を始めている。