ままならない私たち~生きづらさを身体から考える

この連載について

「前へならえ」と言われたら、すぐにできるように「身体をしつけて」しまった私たちは、いつしか身体の声が聞こえなくなっているのかもしれません。
「小さく前へならえ」ができずに体が硬直してしまった経験のある尹さんと、社会主義国家による身体活動によって尊厳を傷つけられたと感じたグリゴレさん(その後チェルノブイリでの被爆体験も…)。
2人の身体は、自分の意識ではコントロールできない領域で、もっと敏感に色々なことを感じているようです。
自分だけのものだと思っていた「身体の違和感」をもっと見つめてみたら、生きづらさが和らぐかも。
そんな願いから、往復書簡がスタートしました。

第13回

目に映るものを超えていく感性 尹より

2024年4月2日掲載

 

世界的にベストセラーになった小説『三体』を発売直後に買ったものの、5年ばかり本棚に入れっぱなしにしていたのを思い出したのは、Netflixで配信開始されたのを知ったからでした。

まずは映像よりも原作からと分厚い本を読み終え、ついでシリーズ1に取り掛かりました。映像作品は小説世界をシンプルに脚色しており、とても乱暴に説明すると「400年後に人類を襲う運命にどう対処するか」が中心に展開されています。

ありていに言えば、三体星人という宇宙人が襲来するのです。現時点では彼らの科学技術は地球のそれを上回っています。ただし、人類のこれまでの進化は彼らよりも速い。三体星人としては400年後に地球に到達した時、迎撃されては困るというわけで、地球の科学文明の破壊を目論むべく、介入してくるという筋立てです。

科学の基礎技術の確立を阻み、奇跡的な振る舞いを見せることで科学を厭う気持ちを起こさせる。たとえば夜空を覆う星が電灯みたいに明滅したり、地上の景色が天空に映し出されたりと、現実が歪んでしまいます。世界各国で混乱が起き、人々は自暴自棄になったり、各地で暴動が起きたりするのです。

映像作品の方が小説よりも視覚に訴えてくるのは当然ですが、そのことでかえって明らかになったなと思うことがあります。400年先のまだ起きてもいない出来事に反応して、不安になってしまうのは、目が見えてしまう。また文字を読んで確認できてしまうからではないか。仮に目が見えない人や文字を読めない人であれば、今日を生きる上で自分の身体と心で触れられる出来事に心砕くことはあっても、遠い未来の出来事をそこまで我が身に引き付けてしまい、捨て鉢になったりするだろうか。

そういうことを思っていると、未来に起きるかもしれない災厄を思想的に語ること、三体星人を崇めたり依存したり、あるいは地球至上主義みたいになるのも不思議な気がしてきます。

ところで『三体』ではレイチェル・カーソンの『沈黙の春』がキーワードになっているのです。20代の頃に読んだ記憶を探ると、イリナさんが前回書かれていたことを思い出しました。このように述べていましたね。

「人類は言葉を使うから優れているという歴史的な勘違いにいつになったら人は気づくのでしょう。静けさの方がずっと大事で人間らしいのに。言葉は祈りと詩、唄のためだけにあるのであって、人間同士のコミュニケーションのためではありません」

『沈黙の春』は、人間が虫の羽音も鳥のさえずりも絶やした世界を描写した作品です。人間は世界を支配するための知識を、言葉を、饒舌に語ってきた。でも、ここに至って沈黙すべきは人間のほうだということに、薄々気づいている人は多いでしょう。口を噤み耳をそばだて目を凝らすべきは、歴史が始まって以来、ずっと人間だったかもしれません。

先ほど「目が見えてしまう」と述べましたが、人間は目を見開いていても大抵は何も見てはいない。己の誇る賢しらが何をもたらしているのかも見てとることができない。それが人間の性なのかもしれません。であれば、私たちの目はほとんど散漫になるために開かれているようです。自分に立ちかえるだけの静けさがいつも足りないのです。

そういう意味で、この冬は沈黙と祈りについて考えさせられた時期だったかもしれません。ふたつの出来事についてお話します。

先日、知人ふたりの家族とともに鹿児島へ行きました。私が長らく関わっている知的障害者支援施設「しょうぶ学園」を訪ねるためです。ここはアート活動で海外でも知られるようになっていて、そこに注目されがちではありますが、いちばんラディカルなのは、「福祉とは何か」を常に模索しているところです。

施設内での日々の活動を知ると「そもそも健常者は言うほど健常だろうか。障害者とは、誰にとって障害者なのか?」といった問いに立ち返らざるを得なくなる。そういう場だという話をしていたこともあって、かねてしょうぶ学園に興味を抱いていた知人らと学園を訪ねたというわけです。

学園を見学させてもらった日の夜、園長の福森伸さん宅で会食をしました。その場には知人の子供らもいて、仮にFくんとSくんとしておきます。私はFくんのことを彼が生まれた直後から知っていて、とても活発で可愛い9歳の男の子です。近頃ではその活発さを「多動」と呼ぶようではありますが。

一方のSくんは最近出会ったばかりですが、優しくて利発そうな目をした10歳の男の子。二人ともゲームが好きで、鹿児島に来ても暇を見つけてはゲームをしていました。

宴の流れで、福森さんの子息が自らリノベーションした近所のお宅を見学した際、福森さんの孫にあたるYくんが歓迎のためか、ディジュリドゥ(オーストラリアの先住民、アボリジニの笛)を吹く傍ら太鼓を叩いて演奏をしてくれました。さっきまでFくんとSくんとゲームをしていた彼が、目の覚めるような演奏をしたので、その場にいた知人らも「ほう」と感嘆の声をあげました。

するとFくんは突然、窓際の床に膝を抱えてしゃがみ込んだのです。私はそのあからさまな態度に少し感動しました。「象形文字はこうしてできたのではないか」とすら思ったのです。Fくんは動揺と羨ましさを内心に抱えて、それを妙にいじくることなく、素直に自分の感情と感覚を表した。そしたら、それが膝を抱える格好になったのでしょう。

彼らの興じていたゲームは、私が若い頃に遊んでいた内容と比べたら極めて高度です。瞬間、瞬間に認識し、反応しないとゲームの世界を楽しめないだろうとは、横目で見ていてもわかりました。

そういうゲームによって磨かれた感性同士でさっきまで共に遊んでいた子が認識と反応ではない、身体を使って楽器と関わるという生々しい世界を見せた。多分、意識でどうこうできない、圧倒的な現実に触れた瞬間、Fくんは自分の意ひとつで処理できない、ボタンを操作して関われない世界があることに驚いたと同時に、その次元でYくんが楽しく泳いでいる姿に打ちのめされたのでしょう。

私はFくんの他人に羨ましさを覚える感性をいいなと思いました。嫉妬は恥ずべきことだと思われがちですが、異なる次元の現実を垣間見た時に覚えた打撃と憧れは、彼方を眩しく見上げる眼差しがないと芽生えない。現実にはレイヤーが様々にあり、彼が嫉視(しっし)したその次元に至ろうとすれば、身体を張らないといけない。今知っている現実だけが本当ではない。現実の裂け目をこの夜、彼は知ったことになりはしないでしょうか。

その一方、Sくんはニコニコとしていて、その夜も次の日もゲームを楽しんでいました。旅も終わりになって私はSくんが文字を読むことが困難な、いわゆる読字障害だと知りました。だからゲームもプレイ中に表示される文字情報についてはなんとなくの手探りでやっているようなのです。かといって、彼は知り得ない世界に対して後ろめたい感じがなく、表情に暗さがないのです。私の知らないところではもしかしたらそういう顔をしているのかもしれませんが。

高度情報化社会と言われ、それが加速することはあっても揺らぐことのない文明を私たちは生きています。文字を読むことが困難であれば、不利な生き方をせざるを得ないのではないか。特に親であれば、我が子の行末を案じるでしょう。

確かに現状の社会に適応しようとすれは、生きづらいことは多いと思います。と同時に彼はある意味で、無文字社会を生きているのではないかと思うと、この社会の成員とは違い、簡単に知識や情報、概念にやられてしまわない感性を磨いていけると言えるかもしれない。

この目に映る現実をそっくりそのまま現実として受け取ってしまわないためには……つまり目を見開いて覚醒しておくには、彼らの感性は不可欠ではないか。FくんやSくんの振る舞いは、何に注目し、何を語るべきかについて暗示してくれているような気がしたのです。社会が期待するような考えを育み、それに従ってしか言葉を話さなくなるのではない、成長のあり方です。

もうひとつ披露したいエピソードは名古屋での出来事です。11月に、ある文化財団主催による二日にわたるイベントに招かれました。イベント二日目は、生きづらさについて10歳から29歳までの参加者が率直に語り合うという催しでした。参加者のひとりの10歳の女の子はこういうことを言いました。

「毎日死にたいと思っている。この先目新しいことが起きる気もしないし。だったらもういいかなと思う」

彼女のクラスメイトは「そんなこと言わないで」「生きていたら経験できるはずの楽しいことをみすみす逃してしまうよ」と言ってはくれるそうです。それは自分を思ってのことだろうけれど、むしろそう言われたら余計に「そういうことじゃない」という思いが募るのだそうです。

私は「目新しいことが起きない」といった、毎日同じことが繰り返されるだけという風景がどういうふうに成り立っているか? と尋ねました。「目新しいことが起きない」のは、毎日きちんと観測された結果だとしたら、特定の立場と角度と高さから見ているという視点は欠かせないからです。「どういうことだろう?」という表情をしたので、私は彼女に身長を尋ねたところ、141センチだと教えてくれました。

「『目新しいことが起きない』という現実は141センチの高さから見た風景でしょう? しかも直立二足歩行の姿から見たもの。たとえば、あなたが明日から四つん這いの姿勢で学校へ行ったら、現実の見え方が全然違うものとして捉えられると思うのだけど。試しにやってみたらどうですか?」

そう私が言うと、「あまり目立つことはやりたくない」と彼女はちょっと笑って言いました。

「じゃあ、竹馬に乗るとか下駄を履くとか」

「下駄? 下駄は履いたことがないです」

生まれてこの方下駄を履いたことがないのか!と、カルチャーギャップを感じたのですが、それはさておきこう続けました。

「たとえば裸足で地面を歩いたら、見慣れた景色のはずの中に『感じ慣れない何か』が感じられるでしょう、きっと」

だから生きてほしいという結論を言葉で手渡したいのではなく、「感じ慣れない何か」に触れて、それが彼女にとって「何であったか」を体験したら、全然違う出来事を目の当たりにするはず。死ぬ前に同じことの繰り返しではない、新たなことを味わってみるのもいいのでは? と話してみました。

「生きることが素晴らしい」という言葉とのズレや一致を確認するのではなく、ただ自分の振る舞いを黙って味わってみる。そんなことを話していると、彼女は「同じことの繰り返しの現実ではない現実に気づいていそうな自分もいる」といった趣旨のことを漏らしました。

その何気ない一言は私にはとても大きな出来事で、その瞬間、彼女は自分の中にいる他者と目を合わせたのだと思います。

彼女と彼女の中の他者と私とが、その存在に気づいた。それは明示することのできない、言葉でしかと言えないことではあるけれど、確かにいるのだとそのとき私たちは知った。何かを確認するのではなく、言えなさの中にしか感じられない。言葉が沈澱し、静まった中でしか思いを馳せることができない。

もしも私たちが私たちの足元を照らす叡智を知り得るとしたら、沈黙の行いの中にしかないのではないかと思うのです。

著者プロフィール
尹雄大 × イリナ・グリゴレ

尹雄大(ゆん・うんで)
1970年、神戸市生まれ。テレビ制作会社勤務を経てライターになる。主な著書に『つながり過ぎないでいい』『さよなら、男社会』(ともに亜紀書房)、『異聞風土記』(晶文社)、『体の知性を取り戻す』(講談社現代新書)など。身体や言葉の関わりに興味を持っており、その一環としてインタビューセッションを行なっている。

イリナ・グリゴレ
1984年ルーマニア生まれ。2006年に日本に留学し、2007年に獅子舞の調査をはじめる。
一時帰国後2009年に国費留学生として来日。弘前大学大学院修士課程修了後、東京大学大学院博士課程に入学。主な研究テーマは北東北の獅子舞、日本で生活する女性の身体とジェンダーに関する映像人類学的研究。現在はオートエスノグラフィー、日本における移民の研究を始めている。