ままならない私たち~生きづらさを身体から考える

この連載について

「前へならえ」と言われたら、すぐにできるように「身体をしつけて」しまった私たちは、いつしか身体の声が聞こえなくなっているのかもしれません。
「小さく前へならえ」ができずに体が硬直してしまった経験のある尹さんと、社会主義国家による身体活動によって尊厳を傷つけられたと感じたグリゴレさん(その後チェルノブイリでの被爆体験も…)。
2人の身体は、自分の意識ではコントロールできない領域で、もっと敏感に色々なことを感じているようです。
自分だけのものだと思っていた「身体の違和感」をもっと見つめてみたら、生きづらさが和らぐかも。
そんな願いから、往復書簡がスタートしました。

第8回

病気と世界の終わりと向き合う イリナより

2023年12月15日掲載

尹さん、今日はフォリアという古い3拍子の曲を聴きながら書いています。いろんなバージョンがあって、有名なのはバロック時代のコレッリのだけど、元々は15世紀のイベリア半島の以来の踊りだそうです。

私には二つの癖があります。もっとあると思うが一番よく意識しているのはこの二つです。一番目は、同じ音楽を繰り返して聴いて、その曲以外何も聞けなくなることです。

二番目は、その曲を何百回も聴いた後で突然飽きてしまうことです。でも、フォリアにはたくさんのバージョンがあるため、今のところ飽きていません。

フォリアを初めてラジオで聴いた時、心臓が止まったかと思うぐらい息が浅くなって、はじめて聴いた曲だと思えなかったのです。すぐに、踊りのための音楽だとわかりました。踊りたくなった。車の中だったためすぐ踊れなかったけど、家でたまにかけて踊っています。

中世ヨーロッパで病気とされたタランテラのことを思い出します。タランテラはイタリアで突然流行した集団の踊りでした。突然踊り出す人がいて、それが周りの人に移って、何日も踊りつづけたそうです。本当にあったかのかどうか、気のせいかもしれない。でも一瞬、そんな病気があってもいいと思いました。

最近、私は病気について見直しています。今まで病気と向き合う機会が多かったけど、私たちの身体が地球の空気に触れる限り病気は避けられないという現実を受け入れるようになりました。

尹さんのお母様の病気について読んで驚きました。ここ1ヶ月前から娘が不明の熱を出した時、最初は膠原病の疑いがあったことに不思議な繋がりを感じています。身近な人、親、子供の病気と向き合うのは自分の病気より辛いです。娘は特定できないウイルス感染だったのですが、ここ最近の世界で起きていること、つまり人間とウイルスの関係について、あるいは病気について深く考えるきっかけとなりました。これについて考えるのが初めてということではないのですが、私にできることとは何だったのかと思い始めました。

身体を持つことは、弱さと向き合うことであって、病気を経験することによって強くなると少しずつわかり始めました。41℃の熱が何日も出る小さな身体を触りながら、今までの自分が壊れてきて、何も感じなくなった時間がありました。今までの人生では、何も感じないという無感情な状態は私にはありませんでした。本も読めず、映画も見ない日などなかったのに、疲れのせいでできなくなってしまいました。今まで全身に力を入れて戦う姿勢で生きたのに、突然に力が入らず、涙も出ず、反抗せず現在の状況を受け入れました。

こういう話、尹さんにはしてもいいと思います。私の『優しい地獄』という本にも書いたように、子供の頃から世界の終わりと向き合う自分がいました。ヨーロッパの東方正教会では、文字を読めない一般農民のために、聖書で書かれた世界の終わりのことが教会の壁のイコンと神父の言葉によって古くから伝えられてきました。私はそのイメージを何回も繰り返す音楽と同じようにして想像します。

そして、死については、村人の葬儀を何回も見て、生き方の一部として受け入れる体質ができていました。人が死ぬのは怖かったけど、生きることは世界の終わり、死、病気と向き合うことなのだ、と現在より子供の私の方がわかっていたようです。むしろ今の私のほうが、世界について何もわかってない気がしています。

そして、人は人を助けることができないと思い始めています。わたしたちにできることは毎日生き残ることだけ。病気になっても、死ぬまで生きる。その1秒、1秒を普通に生きるのは一番大変かもしれないが、意味を探さずにただ生きるというのは大きな力だと最近気づきました。

尹さんの母親はきっともっと尹さんと一緒にいたかったはずです。でも生まれることによって離れる。私たち人間は。生まれたら別々の身体になるから。一体化するには死、あるいは、死に近い状態が必要かもしれない。

子供の時、世界の終わりの話とともにもう一つの物語が好きでした。それは聖人の話です。彼ら、彼女らは死んでからも他人の病気を治せる。身体が腐らない。さまざまな奇跡を起こせる人々だと信じられています。自分の中では、同じ人間なのに、つまり生まれているのに生きている時から、そして特に死んでからこんな素晴らしいことがどうしてたくさんできるのか、といつも不思議に思っていました。信じ難い経験をたくさん聞いて、改めて病気とは何か思い始めました。たとえば、私のシャーマンへの興味はここから始まったのですが、これだけさまざまな文化ではこういった「力」を持っている人がいるのであれば、世界は変わらないのはなぜなのでしょうか。

こうして考えると、世界は最初から最後までこんなところであるべきだったのかもしれないと思うほかないようです。生まれながら苦しみを経験し、帰る。少しの間、いる。一緒に。踊り、詩を書き、美味しいものを食べ、音楽を作り、犬を飼い、泣き、子供を産み、傷み、愛し、あっという間に消えていく。きっと地球以上のところが、私たちにもある。地球が苦しすぎるのであれば。考えてみればこれを全て経験できるのはなかなかすごい。苦しいという状態は自然な状態。身体を持っているという証拠。言葉は身体のパフォーマンスの一部にしかすぎない。

ある日、A Iが編集した動画を見て驚きました。それは架空のハンバーガーショップのC Mの体裁で、人が食べたり踊ったりする動作が不自然に合成され、そのグロテスクな組み合わせが可笑しくてしょうがないのですが、笑いながらA Iがかわいそうだと思ったのは、A Iは生き物と違って身体がないという事実です。それはきっとA I自身も気づいていると思うのです。

著者プロフィール
尹雄大 × イリナ・グリゴレ

尹雄大(ゆん・うんで)
1970年、神戸市生まれ。テレビ制作会社勤務を経てライターになる。主な著書に『つながり過ぎないでいい』『さよなら、男社会』(ともに亜紀書房)、『異聞風土記』(晶文社)、『体の知性を取り戻す』(講談社現代新書)など。身体や言葉の関わりに興味を持っており、その一環としてインタビューセッションを行なっている。

イリナ・グリゴレ
1984年ルーマニア生まれ。2006年に日本に留学し、2007年に獅子舞の調査をはじめる。
一時帰国後2009年に国費留学生として来日。弘前大学大学院修士課程修了後、東京大学大学院博士課程に入学。主な研究テーマは北東北の獅子舞、日本で生活する女性の身体とジェンダーに関する映像人類学的研究。現在はオートエスノグラフィー、日本における移民の研究を始めている。