ままならない私たち~生きづらさを身体から考える

この連載について

「前へならえ」と言われたら、すぐにできるように「身体をしつけて」しまった私たちは、いつしか身体の声が聞こえなくなっているのかもしれません。
「小さく前へならえ」ができずに体が硬直してしまった経験のある尹さんと、社会主義国家による身体活動によって尊厳を傷つけられたと感じたグリゴレさん(その後チェルノブイリでの被爆体験も…)。
2人の身体は、自分の意識ではコントロールできない領域で、もっと敏感に色々なことを感じているようです。
自分だけのものだと思っていた「身体の違和感」をもっと見つめてみたら、生きづらさが和らぐかも。
そんな願いから、往復書簡がスタートしました。

第17回

偏って生きることの自覚ということ 尹より

2024年6月1日掲載

 幼い頃はとても虚弱で週に一度は発熱し、扁桃腺を腫らしていました。食も細ければ体つきも華奢だったのです。かといって基本的には病気とは無縁でした。ときどき髄膜炎や腸捻転という病がイベントのように生じたくらいのものです。

 一時期を除き体型は基本的にほっそりしていたのですが、近年武術を本格的に始めてからまったく体つきが変わってしまい、腹と腰が豊かになり、40歳を超えても「書生っぽい」と言われた青臭さもすっかり消えました。

 もともと骨格はしっかりしていると言われていたので、そこから考えるとかつての見た目の虚弱さは偽装だったのだろうなと思います。傍目には過酷と言われた家庭環境も、それが選びようのないものである以上、私にとっては普通の日常であり、その中を生き延びるためには、自分を明らかにするよりも受け入れられる姿にならなければいけなかった。それが私にとっては弱さに身をやつすことだったのでしょう。

 偽装していることがわかったのであれば、しっかりしている自分に腰を据えて生きられたのかと言えば、そうでもなく、むしろ自分と身体とがしっくりこない。いつもどこかしらずれている感じが濃く際立つようになりました。もちろんイリナさんとは比べようもないと思うのですが、何かしらどこかがいつも痛いという疼く感覚が日常になりました。痛む身体でい続けるのは楽ではありません。だけど人間として生まれた限りはごく当たり前のことなのかもしれない。痛みに身を開き続けていくしかないと思い始めています。そしてこの痛みは外からやって来ているわけでもなさそうです。

 先日、キッチンでコーヒー豆をミルで挽いていたら、足の裏がしっかりと地面につかない、力がちゃんと入らないようにして立っているとわかってしまったのです。腰の位置が本来あるべきところよりも前にあった。今更ながらの発見に驚きました。

 その途端、「本来あるべき腰の位置?」と自問自答が始まります。人生のほとんどをしっくりこない身体として生きてきた。落ち着かず、うっすらとした痛みと不快さを感じるままの身体で人と世界と関わってきた。それが自分らしさを作り上げてもきたのは、動かしようのない事実です。一方で、その「自分らしさ」は偽装がもたらしてきた結果でもあります。

 これまで「これが自分だ」と思ってきた自分は演技であり、嘘偽りだった。そう言われたら確かにそうかもしれません。もっと強く「そうだったのだ!」と決めつけてしまえば、生育環境を怨むとか自分を呪うといったわかりやすい物語に自分の身を預けられます。

 弱者である自身を擁護しつつ強者を憎むことを保証してくれるルサンチマンの物語です。それと自分とが堅く結ばれたとき、私から自由が失われます。

 他の人は知りませんが、私の中にある恥を知る感覚からすると、そんなふうに物語に依存してしまうことは破廉恥にすぎます。まして本来の身体がしっかりしているのであれば、そこは「もちこたえないといけない」という身体の声が私には聞こえます。耳を塞いでも聞こえてくる声は、こう告げます。

「物語に全面的に自分を預けてしまうのではなく、自分を保持すること。自分で居続けること」

 ここで言う自分とは確固としたアイデンティティではありません。言葉で確認できるものでもないでしょう。

 嘘偽りである自分という事実。それを捕まえて離さず、かといって絶望に向かうのは性急な動きすぎる。「嘘偽りだった」という事実がわかるということは、偽りの自分からずれた自分がいるからこそです。事態を観察している自分が確かに存在している。

 明らかなのは、偽りでもあるし、本当でもあること。偽りでもないし、本当でもないこと。矛盾した出来事に出会うと解決を求めたくなります。どちらか一方に加担する言葉を見つけることが解決だと思ってしまう。

 でも、ふたつの間に立ち続けること。自分をもちこたえるとは、そういうことではないかと思います。私に限らず、人は偏在して生きざるを得ないのですから。遍在が広がりを意味するなら、偏在とは頑なになったあり方とでも言えましょう。なので、もちこたえるとは、絶えず偏りながら歩んでいることの自覚。そして偏りの極みから極みの間、その揺らぎの中を生きることでもあるでしょう。

 偏在という語を久々に口にして思い出したことがあります。日本のSNSの草分けにmixiというものがあります。もっとも盛んだったのはもう20年以上前になりますか。まだインターネットに集合知のもたらす開明さと明るい未来があると思われていた牧歌的な頃でした。そう思わせるくらい、確かに一目置くべきことを書く人たちがいて、建設的な意見の交換がなされているところをしばしば見ました。そうしたやり取りの中で私が影響を受け、折に触れて考えることを促した文言がふたつあります。

 ひとつは、「人は偏在して生きざるを得ない。だから奪わない工夫が必要なのだ」です。偏って生きるからこそ己の欲望を野放図にかなえようとして、他人を支配することもおかしいと思わなくなる。そうしないための工夫が必要だというわけです。

 もうひとつは人類の偏在がもたらす罪悪について。その人はこう書きました。

「ホロコースト抜きのナチズムが再来したら、ヒューマニズムでの撃退は困難かもしれない」

 前者に関しては、今はこう思います。必要なのは「奪わない工夫」ではなく、ただ「奪わないこと」ではないかと。そして偏在を敵視するのではなく、偏りをまっとうに偏らせないと何が中庸かはわからないだろう。敵を排除することに腐心するような工夫では、その正体を遂に知ることができない。

 そして後者については、パレスチナで起きていることを見ると、ナチスと違い絶滅収容所こそ(おそらくは)ないものの、ナチズムが再来していると言わざるを得ない。そうなると、かつても今もどちらにしてもヒューマニズムでは太刀打ちできなかったし、できないままではないか。

 ヒューマニズムは多義的な概念です。博愛の観点で理解すれば、「人類は対等である」が導き出されます。そして生命を尊重するとは、誰しもを等価に扱うが故に優劣をつけないことになります。そのため「隣人だからといって必ずしも優先しない」という直感に反することも正しくなります。

 また人間である限り平等に扱う態度が人間中心主義に転じれば、生物の中の人間にだけ重心を置いた偏在をもたらすでしょう。とりあえず、なんであれ人間が生きていくことに価値をおけば、他の動物や植物がどうなろうとかまわないと極言できてしまう。罪悪感を抱えようがなんだろうが、環境破壊を肯定する理屈さえ正当化できてしまえます。それがやがて人間が生きていくには過酷な環境をもたらすとしてもです。

 私個人の人生を人間全体に広げるのは、おかしなことではあると承知しているのですが、こう思うのです。もしかしたら人間が「こうでなければ生きていけない」と思っていることは、極めて個人的な(正しくは人類的な)思い込みに過ぎないのかもしれません。それは偽装された生存戦略なのかもしれません。

 偽装されていない生存とは、何かと考えたとき、ただ生きていくことだろうとは思っても、人間にとってそれが難しいことは重々承知ながら、でもやっぱりただ生きていくことについて考えてしまいます。

 服部文祥さんという登山家がいます。「サバイバル登山」を提唱しています。食料や燃料をできるだけ現地で調達し、なるべく身ひとつで生きて山中を移動していくというものです。最新の器具を揃え、自然を加工して登山することに違和感を覚えて「サバイバル登山」と自覚的に名付けているのでしょうが、歴史的に見ると、有り合わせのもので済ませるのは、普通のことだったでしょう。むしろ特別さは器具ではなく、自身の身体に求めていき、かつてはそれが修験者と呼ばれるような人たちだったでしょう。

 服部さんは山中で鹿を撃ち、魚を釣り、それらを捌き食べ、崖から滑落し頭を切り、折れた肋骨が肺に血溜まりをもたらしても自力で下山していました。奪った命に見合うためにできることをやるという姿を見て、私はこの地球上で生きていく能力を何ひとつ身につけずにいながら、ただ金を稼ぐことのみで生きてきたことのおかしさをありありと突きつけられました。落ち込むことは罪悪感に浸ることを許すだけにしかならないので、そちらに自分を向けたくもありません。

 与えられた生育環境を世界そのものだと勘違いして、個人的に生き延びることにかまけて、ただ生きることをおざなりにしてきた。生き方は人それぞれであるのは間違いないとしても、イリナさんが書かれた通り、「もう直に水が飲める川はほとんどないだろう」という世界はおかしい。

 思い返せば、私が四万十川源流近くで水を手で掬い飲んだのは、33年前でした。昨日のように思い出す川の水の冷たさと美味さ。思い出は昨日のことのように錯覚させても、今あの川は直に飲めるのだろうか。

 極めて個人的な体験と記憶に基づいて人生を終えることが含む悪について思い至りつつあります。

著者プロフィール
尹雄大 × イリナ・グリゴレ

尹雄大(ゆん・うんで)
1970年、神戸市生まれ。テレビ制作会社勤務を経てライターになる。主な著書に『つながり過ぎないでいい』『さよなら、男社会』(ともに亜紀書房)、『異聞風土記』(晶文社)、『体の知性を取り戻す』(講談社現代新書)など。身体や言葉の関わりに興味を持っており、その一環としてインタビューセッションを行なっている。

イリナ・グリゴレ
1984年ルーマニア生まれ。2006年に日本に留学し、2007年に獅子舞の調査をはじめる。
一時帰国後2009年に国費留学生として来日。弘前大学大学院修士課程修了後、東京大学大学院博士課程に入学。主な研究テーマは北東北の獅子舞、日本で生活する女性の身体とジェンダーに関する映像人類学的研究。現在はオートエスノグラフィー、日本における移民の研究を始めている。