ままならない私たち~生きづらさを身体から考える

この連載について

「前へならえ」と言われたら、すぐにできるように「身体をしつけて」しまった私たちは、いつしか身体の声が聞こえなくなっているのかもしれません。
「小さく前へならえ」ができずに体が硬直してしまった経験のある尹さんと、社会主義国家による身体活動によって尊厳を傷つけられたと感じたグリゴレさん(その後チェルノブイリでの被爆体験も…)。
2人の身体は、自分の意識ではコントロールできない領域で、もっと敏感に色々なことを感じているようです。
自分だけのものだと思っていた「身体の違和感」をもっと見つめてみたら、生きづらさが和らぐかも。
そんな願いから、往復書簡がスタートしました。

第16回

贅沢な卵 イリナより

2024年5月15日掲載

尹さん、私はこの春にまた小さな手術をしました。

心配するほどのものではなく、ただ、冬の間に苦しいことがあって、その結果、すぐ見えるような形で身体に表れた悲しみだったのです。

私は身体がとても弱い。見た目はそうでもなく、丈夫なルーマニア農民の遺伝子を受け継いでいるようで、骨が太いし、ほっぺはいつも赤い。きっと健康そのものに見えるでしょうね。でも実際のところとても弱い。どれだけ弱いかというと、時に動けなくなるぐらい。

その時に自分の血の流れを感じる。川のような流れは皮膚の下に確かにある。自分の身体が液体でできていて、森の中から海へ川が流れ出すような感覚。

身体に何か起きると――例えば暴力、手術、出産などですが――前回書いたようにミモザのようになる。つまり植物とか虫のようになるのです。

虫とキノコが私の仲間のように感じます。というか、彼らの強さを意識することがある。本にも書いたように、暴力を受けた時に虫のようになって動けなくなったことがあります。このエピソードは、私の秘密を明かした話だったとも言えるでしょう。

周りの環境を把握しはじめていた時から、虫や草花を観察し、自分と蟻とミツバチ、草と木との世界線が全くないところまで溶け込んで、自分は透明になって、その景色の中の1匹の魚かてんとう虫でしかないと思っていました。今は庭に鈴蘭の花が咲いていて、祖父母の庭にあった鈴蘭を思い出しています。こういう時は、自分の身体も鈴蘭になり、いい匂いがするということしか意識していません。

この透明になる術は地球を味わうことでしかないと感じます。身体を持ってしかできないこと。そしてキーワードは「動き」、「移動」、「速度」。これらについて考えるとき、論理的にもなれますが、ここでは身体の経験を共有した場所だけにとどめたいと思います。なぜかと言うと、哲学的に論じ始めると確かに格好いいけれど、最終的に言葉のバトルになり下がるから。

言葉は身体にとって大事でありながら、前に述べたように詩や歌以外に使われると、たちまちコミュニケーションの幻になってしまいます。つまり、お互いのことがわかった気がしただけ。実際のところは何もわかってない。

でも、身体同士の対話は、目と身体の動き、接触にあります。接触による魔術も、フレーザーが『金枝篇(きんしへん)』で説明した通り、触るということによって、一方から他方に力が移動したり、共有されたりします。私の脳内の感触を全て説明することはできませんが、イラクサという植物があって、触ると手が酷くかぶれるのですが、植物、虫、きのこの毒は全部このようです。でも人間の身体の場合は、こうした見えるサインもなく、わかりづらい。言葉で言うしかない。このように比べると、人間の方がとても弱いとよくわかります。死ぬ時でさえ、植物は特別な液体を出して、萎れるというサインを見せる。わかりやすいのです。

尹さんの移動し続ける行動は尹さんの身体を強くしていると感じます。

私はずっとジプシーの乳を飲んでいたから、ジプシーの子供と遊んでいたから、自分もジプシーだと思って、ノマドだと自分に言い続けていました。でも先月、小さな手術を受けた時に、私はノマドではないと気付かされました。ノマドは絶対に一人で旅に出ないから。彼らは家族全員、あるいは一族全員で移動する。このことを今までわかってなかったけど、頭に石が落ちたようにわかった。弱っている理由はここにもある。きのこだってものすごいネットワークを作って生きているし、虫も、植物だってそう。私はノマドではなく、ロストだと気づいたのです。

でも今の世の中では私みたいな人が大勢います。先祖、先人から外れて生きている私たち、世代の伝統的な知恵を失い、身体に大きな負担をかけて生きている。核家族、一人暮らし、移民、難民、シングルマザー。族を失っている全ての人たちの身体がきっと重い、苦しい。自分の先祖の骨が眠る土地から離れることは、身体のある種のトラウマだ。だからケアが必要。ケアというとピントこない人もいるかもしれないが、それは撫でるように相手に触れることだ。触(ふ)れると触(さわ)るとは違うのだ。

ルサンチマンという言葉は男っぽい。ニーチェが最初に使った言葉だが、ヴェーバーではルサンチマンはユダヤ教と関連しているそうだ。今パレスチナで起きていることが私はまだ完全に言語化出来るレベルではないが、宗教的な争いではない。この歴史の繰り返しにあまりにも大きなショックを受けながら、SNSで流れているイメージをずっと見て記録している。いつかジェノサイドが2度と起きないよう、言葉にできたらと思って。

もう一つのショックは、人類学がこの西洋的な植民地主義思考を変えることができなかったということ。つまり、人類学の失敗としても個人的に受け入れた。毎日死んでいる子供たち、お腹が空いた子供たちを見ながら、生きているこの地球とはなんだったのかと考える。

ルサンチマンという言葉は、失礼ながら年上男性の体験に基づいているという印象がある。ドゥルーズによれば、ルサンチマンは憎んで動けなくなる、行動しなくなるという状態。尊敬すること、愛することができない状態。

私は最近まで、ルサンチマンと反省することがちょっと似ていると勘違いしていました。でも違う。憎しみそのものだから。愛を感じる状態の反対。憎むとロストになる。全てを失ってもいいと思っている。違う世界で生きていると思うほど何か違う。

承認されたい、有名になりたい、という人が独裁者になりやすい。でも、深く考えてみると、こういう人たちこそ家族のトラウマが大きいと気づく。難しい。彼らの視線から世界がどういうふうに映っているのか。ヒトラーさえ昔は子供だったという映画まである。彼を暖かく抱っこしている母親がいた。

 このように言葉を書きながら、今は太陽が活発で、太陽フレアで世界中の街の中、パリとかロンドンでもオーロラが観測されて、パレスチナで死んだ子供のようにオーロラの画像を見ることができる。私は単純だから、昔からオーロラを見る夢を見ていた。いつか北極に行って実際に見たいと思っていた。でも今年中か来年は青森でも見られるかもしれないので、とても嬉しい。この単純な喜びを忘れぬようにしている。

尹さんは瀬戸内海の話を書いていますね。実は私の中にはそのイメージがずっと残っています。言葉の意味より。私も瀬戸内海が大好きで、豊島に行った時の思い出を忘れない。オリーブとレモンの木と共に。パレスチナのオリーブは今どうなっているのだろう。

私たち人類は安住の地を探しているだけ。

この前、深浦の小さな村に住む10年来の知り合いの家に遊びに行った。子供たちが海のおじいちゃんと呼ぶ人。彼は宮本常一のいう本物の「忘れられた日本人」だ。私たちはほとんど言葉も交わさず、わらびを採り、野生のワカメを採り、海に沈む太陽を見る。白神山地の深い森から海に流れる川の水を手に掬う。透明で冷たい。口に運んで飲む。とても甘かった。

私たち人間はいつまでこのようなことをするのか。もう直に水が飲める川はほとんどないだろう。そして、この喜びを忘れている。すでに自然のものに触れることが贅沢な行いになっている。

サッカーのレジェンドのベッカムが、妻からクリスマスプレゼントとして鶏を1羽もらったというニュースを見た。ベッカムが自分の鶏が産んだ卵を手に喜ぶ動画を見た。新鮮なオーガニック卵を手に入れることが難しくなっているのだ。これからもっと難しくなるでしょう。でも農業や自然のことを大事にする若者と家族も増えている。新しい時代の始まり。

そして豚しか飼ったことのない私が犬を飼い始めた。そう、豚の方が良かったかもしれない。

 

著者プロフィール
尹雄大 × イリナ・グリゴレ

尹雄大(ゆん・うんで)
1970年、神戸市生まれ。テレビ制作会社勤務を経てライターになる。主な著書に『つながり過ぎないでいい』『さよなら、男社会』(ともに亜紀書房)、『異聞風土記』(晶文社)、『体の知性を取り戻す』(講談社現代新書)など。身体や言葉の関わりに興味を持っており、その一環としてインタビューセッションを行なっている。

イリナ・グリゴレ
1984年ルーマニア生まれ。2006年に日本に留学し、2007年に獅子舞の調査をはじめる。
一時帰国後2009年に国費留学生として来日。弘前大学大学院修士課程修了後、東京大学大学院博士課程に入学。主な研究テーマは北東北の獅子舞、日本で生活する女性の身体とジェンダーに関する映像人類学的研究。現在はオートエスノグラフィー、日本における移民の研究を始めている。