ままならない私たち~生きづらさを身体から考える

この連載について

「前へならえ」と言われたら、すぐにできるように「身体をしつけて」しまった私たちは、いつしか身体の声が聞こえなくなっているのかもしれません。
「小さく前へならえ」ができずに体が硬直してしまった経験のある尹さんと、社会主義国家による身体活動によって尊厳を傷つけられたと感じたグリゴレさん(その後チェルノブイリでの被爆体験も…)。
2人の身体は、自分の意識ではコントロールできない領域で、もっと敏感に色々なことを感じているようです。
自分だけのものだと思っていた「身体の違和感」をもっと見つめてみたら、生きづらさが和らぐかも。
そんな願いから、往復書簡がスタートしました。

第23回

正しさを叫ぶよりケアをしたい 尹より

2024年9月2日掲載

 類を見ない勢いの台風がゆっくりとした足取りで九州に上陸し、猛烈な雨と風を各地に及ぼしつつあるというニュースを目にした後で外へ出ると、曇天の鈍い光が射す中に小糠雨(こぬかあめ)が降っているばかりでした。わずかに潮の匂いがするのは、きっとこの風はどこかで海水を巻き込んだのでしょう。

 鈍色の空は、ここだけが無傷で無痛でいられると安心できるような色合いではなく、この無風さは、ぽっかりと開いた穴にいずれ災厄に見舞われた土地の締め殺されるような低い呻(うめ)きが雪崩れ込んでくるような、そんなふうにも思えてきます。

 気候変動や線状降水帯といった、当初は聞き慣れなかった言葉も今年になって腑に落ちるようになりました。先日、沖縄の竹富島へ行った際、地元の人と話していたら「最近は台風のルートが前と違ってしまい、逸れることが多くなった」と漏らしていました。人間の編み出したテクノロジーは自然の振る舞いに影響を与えるくらいの力――それは暴力と呼んでも差し支えないでしょう――を今や及ぼすことができるようになった。いまさらのように言うのも白々しいのですが、人間の知と力がもたらす暴力はあちらこちらに見飽きるくらい顔を覗かせています。

 前回のお便りでイリナさんは「ここに来たかったと言うこともなく、ここにくることしかできなかったというわけです」と書かれていました。おそらくはルーマニアにおられるかと思います。そこでの日々についてSNSで綴られている様子を加味すると、不躾ながら不穏な匂いを嗅ぎました。何がしか暴力の気配を感じます。これは私の勝手な想像かもしれません。ですが、続けてみます。

 竹富島の旅から1ヶ月ほど経ちました。初めて水平線に沈む太陽をこの目で見、星の瞬きの明るさに驚き、遠浅の碧い海に身を横たえていた時間は「はい、今日から日常です」と断ち切られないような繋がりを自覚のないうちに身体にもたらしていたようです。身体が以前に増してしっかりし、腰がさらに太くなってきたのがわかりやすい変化のひとつです。社会で要請される「そうあらねばならない」という掟に馴染んできた身体の幅よりも超えて、自分が膨らみ始めている気がします。

 そんな頃あいだったせいか、以前から気になりながらも手を出していなかった中村佑子さんの『マザリング 性別を超えて<他者>をケアする』を読みました。すでにご存知の書物かもしれません。

 マザリングとは、辞書に基づけば「子どもやその他の人々をケアし守る行為」と定義されています。生まれながらの性や子を産んだ経験のある母親だけに可能なことではなく、「弱い存在と呼吸をあわせるように全身をなげうつ」行為を意味すると私は理解しました。

 なげうつという結果ではなく、なげうとうという気構えを秘めた、まだ露わにはなっていない伏在した意志に注目したとき、身ごもり、生み出し、その安全を守るために身を投げ出すことは、「自己のなかの空隙(くうげき)が、他者の生命の微細な変化を感じとる体験」として、男である私にも体験可能なことになり得るのだと思います。

 母そして母性という語に警戒する人も多いでしょう。家父長制と相性のいい自己犠牲や献身、男性にとって都合のいい胎内回帰願望を満たすママの役割を担わされてはたまったものではありませんから。もちろん本書はそういう類の内容ではありません。

 「傷ついた身体に空いた穴こそが、他者の痛みを感じとるセンシティビティになる」「守るべき他者を助けようとする感性」と記されたくだりを読むとき、身ごもり、生み出し、見守り、一身に世話をする。そうした経験的に獲得された身体、身振り、心のありようを母性と呼ぶとすれば、その身体観と感性を私たちは性別を超えて共有できる。その可能性は開かれているし、手がかりは「傷ついた身体」にあると思います。被傷性あるいは可傷性と言いましょうか。

 生理で月に一度はままならない身体になる。それを「傷ついた」と呼ぶとすれば、アイデンティティと呼んでいる身体が絵空事のように見えてきます。傷む身体で捉えられる世界。まともに立てない歩けない弱々しい姿で感じ、傷んだ身体で見ることが正常なのではないかと思えてきます。そのまともさを「健康」という概念を持ち出せば、打ち消せると思えてしまうのが、この文明社会なのでしょう。であれば、日常の中で、どのようにして傷みがもたらす正気を保ち続けられるか。やはり被傷性が鍵ではないでしょうか。

 男性は獲得することに熱心でも、身体が何事かを被ることに臆病ではないかと思います。被ることを直視できず、強くなることや技能の向上や精神力に目を逸らしがちではないかと思います。被傷性は克服の対象でしかないのです。傷ついた穴が足りないせいかもしれません。かねて思うのは、ペニスは他者化されにくい。ペニスは自家撞着(じかどうちゃく)しやすく、それは欠落感と寂しさの憐憫(れんびん)を宿らせるのに都合よく機能しすぎる。

 話は傍に逸れるのですが、かつて私は身ごもり出産する夢、と呼ぶには明晰すぎる夢を見ました。夢の中で子宮口が開くのがありありと感じられ、唇を噛み身を左右に捻り生み出そうとしました。実際に身を必死に捩っているのを夢を見ながらわかっていました。自分を圧倒するような出来事に受け身になるしかない。と同時に受け身になっているだけでは、子どもは産まれない。産もうという意思を持続させ続けることは必要なので、産まれてくるものと産もうとするものとのギリギリのせめぎ合いで、身体が軋みました。実際、夢から覚めたあと、足に力が入らず立つとガクガクと足は震え、唇は破れていたのでした。

 夢は赤児が産まれて産声を上げる景色までは至らず、私のモノローグのような情感に身を浸すところで終わりました。我が身を痛めて産んだ子へのこの上なく愛おしい気持ち。この子を完全に守りたいという気持ち。であるからこそ、自分の意に背くようなことがあれば、殺してしまっても構わないくらいの占有したい気持ち。愛憎と呼ぶところの意味が本当に迫ってきたのでした。

 そのとき私は鬼子母神をこの上なく近しく感じたのです。鬼子母神は釈迦によって改心しますが、そこに至る経緯を踏まえると、愛と憎しみは裏腹ではあるけれど、そのつながりを断つところに慈しみの生まれる余地があるのかもしれません。慈しみには、殺すという暴力の発現を無効にする力があるとしたらどうでしょう。

 

「傷ついた身体に空いた穴」と先述しました。身籠るにも男性器を受け入れることが必要で、どうしても受け身にならざるを得ない機会は多い。他者を受け入れることが要請されます。その果てに妊娠があり、他者が自分の体内で大きく占めていく。我が身が我が身でありつつ、そうではなくなることを認めざるを得ない経験をすることになります。受け入れるということがもたらす身体のコントロール不可能性は、生を揺るがします。それだけ死に近づく経験をしている。これと釣り合いの取れる経験を男性はしているでしょうか。過剰な卑下でそう言いたいのではありません。男性は男性であることのもたらす事実を直視する必要があるでしょう。

 

 出産には至らないが、女性が男性器を受け入れるまでの過程が暴力的に行われる様子ですら消費するのが男性向けのポルノです。「傷ついた身体に空いた穴」をさらに傷つけることを娯楽として受け入れてしまう感性とはいったいなんでしょう。あらゆる人がそこからやって来たところに向けての執拗な攻撃。その暴力への親和性は、女性だけに向けているだけで満足するはずがないでしょう。

 男性は女性に比べて圧倒的に、自身の身体が他者であることを理解する機会に乏しい。理解したとしても、何かの目的に向かうように自分を飼い慣らすことに忙しい。本書でも引用されているクリステヴァの言葉を借りれば、結局は「金と戦争以外にはなんの興味もない」。そのことを男たちはどう感じているのか。それについて語る言葉をあまり持っていない。

 自分だけがその愚かさから逃れられるわけではないと改めて気づいたのは、「いつになったら女の人は楽になるのか」と『マザリング』に書かれた一行に今さらながらハッとしたからです。

 これまで何度も聞いてきた言葉です。ときには冗談めいた口調で彼女たちはそれを口にしていました。私はその度に何を言っていいのかわからなくて黙っていたのです。つまりそれはモノローグとして扱っていたことになります。それは黙殺という名の暴力に他なりません。

イリナさんの文章を読んでいると、背後に女性たちの声が聞こえます。どこにも属することができない。うまく声をあげられない。けれど助けを求めている。だけど何を言っていいのかわからない。それを口にしていいのかわからない。

 数日前、私は「概念的で論理的な言葉を話したり書いたりすることが、急激に浅薄に感じられるようになってしまった」とツィートしました。優しさの足りないこの時代の中で、物事をうまく説明したり、個人的な事情に基づいた正しさを主張するばかりで正義に関心がない言葉に同調することで果たして何が得られるのだろうと不意に思ったのです。

 守るべき他者を助けようとする感性をマザリングと呼ぶとすれば、今こそ必要なのだと思います。

 本書を読んで、私は水に沈んでいく静けさと苦しさを味わいました。苦しみのもたらす静けさは、ノイズにかき消されがちな自分の声を聞くのに必要でした。そしてまたページを繰るたびに風が吹き渡り心がはためきもしました。私に伝わる痛みや空虚さを覗き込んでみれば、そこにわかりやすくはないけれど、あなたと分かち合いたい希望のようなものが見えたのです。

「母なる体験とは、自己のなかの空隙が、他者の生命の微細な変化を感じとる体験」であるとすれば、私の痛みも空虚さも、あなたのそれにそっと触れることを可能にするのかもしれません。

著者プロフィール
尹雄大 × イリナ・グリゴレ

尹雄大(ゆん・うんで)
1970年、神戸市生まれ。テレビ制作会社勤務を経てライターになる。主な著書に『つながり過ぎないでいい』『さよなら、男社会』(ともに亜紀書房)、『異聞風土記』(晶文社)、『体の知性を取り戻す』(講談社現代新書)など。身体や言葉の関わりに興味を持っており、その一環としてインタビューセッションを行なっている。

イリナ・グリゴレ
1984年ルーマニア生まれ。2006年に日本に留学し、2007年に獅子舞の調査をはじめる。
一時帰国後2009年に国費留学生として来日。弘前大学大学院修士課程修了後、東京大学大学院博士課程に入学。主な研究テーマは北東北の獅子舞、日本で生活する女性の身体とジェンダーに関する映像人類学的研究。現在はオートエスノグラフィー、日本における移民の研究を始めている。