ままならない私たち~生きづらさを身体から考える

この連載について

「前へならえ」と言われたら、すぐにできるように「身体をしつけて」しまった私たちは、いつしか身体の声が聞こえなくなっているのかもしれません。
「小さく前へならえ」ができずに体が硬直してしまった経験のある尹さんと、社会主義国家による身体活動によって尊厳を傷つけられたと感じたグリゴレさん(その後チェルノブイリでの被爆体験も…)。
2人の身体は、自分の意識ではコントロールできない領域で、もっと敏感に色々なことを感じているようです。
自分だけのものだと思っていた「身体の違和感」をもっと見つめてみたら、生きづらさが和らぐかも。
そんな願いから、往復書簡がスタートしました。

第12回

ガラスと雪のように言葉が溶ける イリナより

2024年3月15日掲載

もう3月に入ったのにカーテンを全開にした正面と横の窓越しに雪の舞いを見ながら書いています。スノーグローブの中にいるみたい。これから春が来るととても思えない。地球温暖化なのか今年の青森県は雪が少ないです。2月なかばなのに毎年楽しみにしている庭先のふきのとうがもう出ていて驚きました。ふきのとう自身もきっと驚いたでしょう。もぎ取ってすぐばっけ味噌(ふき味噌)を作りました。

今、急に窓から光が差してきます。津軽の冬の特徴なのか、北国のどこでもそうなのかよくわからないけれど、急に太陽の光が眩しく、とても眩しく射すのです。その後、1分ぐらいで何もなかったようにまた雪の静かな舞が始まるのでしょう。

光が射すと、すでに白い世界が物凄くキラキラするので脳がついていけないです。寝ている時に暗い部屋に誰か電気をつけてまた急に消し、また急につけるのを繰り返すのとも似ていて、ただこの場合はイライラするというより寝たまま「綺麗」と叫びたくなり、そしてまた寝ます。窓についた雪のかけらの光。何かが始まる気にさせる。でもすぐ消える。

この光のテンポに慣れましたが、私の身体にとっては北国の冬、特に1月、2月がとても辛いです。寒さに弱いだけではなく、深刻な不眠症に悩まされます。ビタミンDの不足でもあるのでしょうか。遺伝的に母や祖母に似てあまりうまく睡眠が取れないし、生まれた場所と全く違うところで暮らすと症状が深刻になることに、何年か前から気がついています。眠れないのに一日中眠いし、寝る時にたくさんの夢を見て疲れます。雪で外出できない季節でもあるので、ずっとスノーグローブの中に住んでいる感覚です。スノーグローブを破りたい気分です。

何年か前に青森市の津軽びいどろの工場を見に行きました。工場は昭和の建物で、ハウルの動く城のように見えました。昔ながらの職人仕事を映像に撮りたいと思っていますが、いまだに何も撮っていません。さっきの光の射し方と同じ。すぐ消えて違うことを始めて、またやろうとしてまた違うことをしてしまいます。

ガラス職人の日常は、私の想像を上回るものでした。それまでテレビでしか見たことのない、飴のように熔かされるガラスを生で見て、本当に飴のように見えて舐めたくなったのです。怖いぐらい舐めたくなるから危ないです。粘土と違って手で触れないから。ガラスを吹くのもいいけれど、直接触れてみたかったです。

あのガラス工場の一番好きなところは、男女ともに舞のようにリズミカルに動いているのに、一切言葉を交わしてないことです。まだ赤ちゃんだった娘を抱っこして、中はとても暑かったのでずっと泣いていたけど、何時間もあそこにいたかった。ゆっくり人とガラスの動きを観察したかった。その時だけ何十年間も冷え性で悩まされている私の身体が暖かくなっていた感覚が忘れられません。この身体はガラス工場の中でないと暖かくならないようです。私の場合、非常に難しい身体で生まれてきたので、今でも、窓から雪を見ながら青森のガラス工場を思い出して少し温まるのです。

尹さんに書いてない間、さまざまなことを思い出しながら過ごしていました。静かに。言葉に全く出ないのは、日本という外国で暮らしているからかもしれません。考えてみれば自分の子どもとずっと外国語で話している自分がいます。

母語ではない言葉を日常的に使うとセリフのように聞こえるときがあります。私の場合、書く時と話す時のギャップが大きいし、本当に無理して話しています。

ガラス工場の職人のように、普段の私は誰かに向かって何かを作ることはありません。料理を作っても、確かに子供のためと思う部分があるですが、最終的に作るときの時空間を楽しむだけです。制作物が最終的に商品化されても、火とガラスと身体がある空間を生きるだけなのです。ですから、書く時にも読んでいる尹さんにガラスの形を想像してもらえるようにします。

工場の中には割れたガラスがたくさんあって、その割れたガラスの山を見て、もしかしたらガラスの世界では失敗が許されるのかもしれない、と心が楽になりました。詩のような瞬間があってそこに失敗した言葉ばかりあってもいい。言葉も、割れたガラスのように割れた言葉の山を作ってまた熔かす。雪も言葉もガラスもとけるという状態を保つように。

人類は言葉を使うから優れているという歴史的な勘違いにいつになったら人は気づくのでしょう。静けさの方がずっと大事で人間らしいのに。言葉は祈りと詩、唄のためだけにあるのであって、人間同士のコミュニケーションのためではありません。

最近読んだハン・ガンの『ギリシャ語の時間』に出ている女性と同じように、私も高校生の時に急に喋れなくなった時がありました。それは私にとって辛くありませんでしたが、家族が辛そうにするので無理に喋っていました。でもあの状態、あの静けさの方が私にとって自然の状態だと感じます。言葉は不思議なことだから、私にはきっと喋らない方がいい時があるのだ、とこの歳になってわかりました。あの時の静けさを大事にしつつ生き続ければいいとこの一ヶ月で思い出しました。言うまでもなく、昔から日本でも言葉の魔法について知られているし、世界のどこにいてもその事実が神話であったり、祈りであったりさまざまな方法で伝えられています。

昔から憧れていた山奥の修道院などでも誰とも喋ってはならない時期があり、仏教やその他の宗教の儀式の前でも静けさを守らないといけない期間がありますね。それなのに、近代社会ではこの静けさを大事にしません。人同士が会っても何も喋らずただ一緒にいることが普通であってほしいです。私は今まで無理をして人に会う時に喋ることがよくあって、そういう時の私は自分が喋っていることに気づかないのです。そこら辺にいる場所の精霊のようなものが、私に化けて喋らせたかもしれない。

喋らない世界の方がずっと広く、日常の言葉は曖昧を生み出すだけです。未来の私たちはきっと鯨と同じ電波で通じ合うのかもしれません。虫とキノコ、植物と動物の思考から学ぶ日が来るのは遠くないでしょう。言葉と文字中心な世界ではない世界を今は想像しづらいかもしれないけれど、古代ギリシャ語のように、人間の全ての言語は死んだ言語となるに違いありません」。新しい思考のメカニズムが生まれるためです。あまりにもプロパガンダに使われすぎて言語というものは嘘にしか聞こえなくなるでしょう。真実の言葉があるとしたら、それは言葉ではなくなるでしょう。少なくとも私たちが今使っている分かりやすい言葉のことではないでしょう。わかるということが啓示だとしたら、それは言葉と何の関係ないです。それは経験からしか生まれないのですし、しかもそのタイミングは誰にもわかりません。

日本の図書館や本屋さんには、ぱっと見ただけでもたくさんの解説書があって驚かされます。何かを言葉で解説されないと不安になる感覚もわかります。それでも、とにかく分からないまま、自分の身体で啓示を受けるまで分からないままでいいのではないでしょうか。誰かの言葉を借りなくてもいいし、雪とガラスのように溶ける言葉を集めなくてもいいのです。雪を見て俳句が浮かぶ状態は、真実の言葉が啓示される瞬間です。ですが、その俳句についての解説を読んだり、話したりすると、物知りに見えるに違いないでしょうが、雪を見た喜びは消えます。

言葉は雪と共に解けます。私は海に浮いている浮玉のようで、溶けないし沈まない言葉だけを集めて、キラキラした津軽びいどろのガラスで日本酒を飲みたいのです。その日本酒も自分で作り方を体験したいし、身体で作り方を覚えたいです。子供のころ、毎年裸足でルーマニアの葡萄を潰してワインを作ったように。何かを作る時、無駄に喋らなくていいのです。

びいどろとはポルトガル語のvidroから来ていて、半透明の物質のことですが、そのvidroという言葉もラテン語のvitreus、vitrium (ガラス)に語源があるといいます。インド・ヨーロッパ祖語ではwed-roで、「水っぽい」という意味です。ラテン語ではvidere という非常に近い言葉があって、見ることという意味なので、ガラスという言葉は水、透明感、光、見ることをついて教えてくれるというわけです。

ガラスについて初めて触れたのはプラトンでしたが、ローマの詩人、哲学者のルクレテイウスも『物の本質について』でガラスについて書いているそうです。ここでは面白いのは、ローマ人にとってvitreus という言葉は水っぽい、透明感というより、輝いている、明るく、キラキラと輝いているような状態を表現しているのだそうです。今こうして書いている時も、窓から光が射して、外に舞う雪がキラキラ輝いています。この世界の眩しさは私の身体に照らされて私の身体も静かに光っているのでしょう。

著者プロフィール
尹雄大 × イリナ・グリゴレ

尹雄大(ゆん・うんで)
1970年、神戸市生まれ。テレビ制作会社勤務を経てライターになる。主な著書に『つながり過ぎないでいい』『さよなら、男社会』(ともに亜紀書房)、『異聞風土記』(晶文社)、『体の知性を取り戻す』(講談社現代新書)など。身体や言葉の関わりに興味を持っており、その一環としてインタビューセッションを行なっている。

イリナ・グリゴレ
1984年ルーマニア生まれ。2006年に日本に留学し、2007年に獅子舞の調査をはじめる。
一時帰国後2009年に国費留学生として来日。弘前大学大学院修士課程修了後、東京大学大学院博士課程に入学。主な研究テーマは北東北の獅子舞、日本で生活する女性の身体とジェンダーに関する映像人類学的研究。現在はオートエスノグラフィー、日本における移民の研究を始めている。