ままならない私たち~生きづらさを身体から考える

この連載について

「前へならえ」と言われたら、すぐにできるように「身体をしつけて」しまった私たちは、いつしか身体の声が聞こえなくなっているのかもしれません。
「小さく前へならえ」ができずに体が硬直してしまった経験のある尹さんと、社会主義国家による身体活動によって尊厳を傷つけられたと感じたグリゴレさん(その後チェルノブイリでの被爆体験も…)。
2人の身体は、自分の意識ではコントロールできない領域で、もっと敏感に色々なことを感じているようです。
自分だけのものだと思っていた「身体の違和感」をもっと見つめてみたら、生きづらさが和らぐかも。
そんな願いから、往復書簡がスタートしました。

ズレについて、そして生まれることについて ――イリナより

2023年11月15日掲載

尹さん、今、私たちは少しズレてきました。

最初からこうなると想定していたので、決して悪いことだと思っていません。言い換えればこの瞬間を待っていました。尹さんの本の帯を書いた時からお互いにこのズレを意識していた。二人、あるいは複数の人たちが言葉を交わすと、この状態が生まれると私も尹さんも分かっていた。この状態を観察しましょう。今は台風の真ん中にいるような状態だと感じます。

尹さんがどのように感じるのか知りたいですが、電話の声で話すことができないので、このまま返事を待ちましょう。「止まって待つ」とカミサマから私の映画の主人公ハナコがアドバイスをもらったように。とてもいいアドバイスです。私はこれまでの人生で待つことがあまり出来なかったから。

あるいは、この、私たちがズレている状態は自然な事かもしれません。例えば、私はバッハを聴けばずっと書けますが、ユーチューブだと突然C Mが入る。その時、私のインスピレーションが壊れたカセットテープのようにグチャグチャになり、ズレているどころか、頭からアイデアがまるで野良犬からノミが飛ぶように飛んでしまう。

人と話すときも、いつもこのような瞬間がある。たぶん、これは自分だけではなくて、皆そうではないかとも思い始めています。それは人が最初から壊れたままのカセットテープとして、未完成で生まれ落ちるからではないでしょうか。

赤ちゃんの話をします。それから、母親としての自分の身体の話もします。尹さんに。しかし、新しいことが何も言えないのです。この身体は同じことを繰り返しているから。私の身体が生まれる、何年万も前からです。

哺乳類が生まれ、哺乳類は母乳を飲み、哺乳類はウイルスと闘い、あるいは共存し、哺乳類はいずれ死ぬか殺される。この繰り返しの中では私の言うことは何もない。あるとすればズレていることしかありません。

しかし、このズレているところこそ新しい何かだとも思います。同じズレは生まれないだろうからです。このようなズレこそは、ニューロンの間の新しい電気回路の光になっているかもしれません。いつか見た動画の中で、ニューロン同士が光っていました。ホタルイカの光と同じような光でした。もしも、全てが繰り返しとしてすでに起こっているのであれば、この私たちが感じるズレが新しい道となる光だと感じたのです。

苦しむこと、戸惑うこと、わからないこと、出来ないこと、コミュニケーションの上手くいかないことも、そんなに悪いことではないのでしょう。『ハナコとカミサマ』という映像の中で、私はあえて20分以上字幕なしで二人のやりとりを流しました。

それは観客には優しくない決断ですが、方言のわからない日本語ネイティブの人々の表情を見、上演後に意見を聞き、結局字幕を入れないのが正しかったと思いました。言語というものは、ネイティブならばよく伝わるというのは当たり前ではなく、戸惑いを残したままハナコの標準語からカミサマが何を言ったのか掴もうとする。二人の表情、声の響き、部屋の様子でわかることがある。つまり、そこでは被写体と観客との力関係が逆になっています。ここで最強なのは、誰にもよくわからないきつい南部弁で異世界とつながっているカミサマなのです。

今日までの私たちは様々なことを理解して生きていると勘違いしています。でも、実のところは、何もわかってないのです。自分のことも、相手のことも、他人のことも、家族のことも、自然のことも。このことがわかっただけまだマシですが、わかったつもりで暮らしている西洋人などがたくさんいて、世界全体がときどき困難に直面することがあるようです。

閉ざされた狭い世界を保つ人たち、戦争やジェノサイドを平気で仕掛けるような人たちは、みな自分のしていることがわかっていると思いこんでいる、自称「ズレてない」人たちばかり。彼らは、自分たちこそが正しい人間で、その他は人間以下であると思っている。そして差別をする。

ですから、私はともにズレながら新たな世界を開こうと声を上げたいです。ズレに苦しむことによって、何か新しい発見に繋がるから、生まれるから。私はズレの人生を選んだ、というより選ばされた。マージナルでいい。分かりにくい人でいい。苦しんでいい。

私もここのところよく「生まれる」という言葉を使います。その理由を考えながら尹さんの文書を読み、やはりこれなのだ、と思いました。私も尹さんも知らない間に導かれたのではないでしょうか。

私の場合も、ヤノマミ族の出産の話を文章に書くたびに、人と話すたびに、講義するときに何度も戻ります。戻るというか、スタート地点も示さないまま、そのあたりを何年も前からうろうろしています。母性の話はしません、誤解されるから。フェミニズムについて論文を書くことにしたけれど、ここではほかに書けることがある。論文にならない文章の方が絶対にいい。

私には今まで大きな壁がありました、生き物として。それは女性として生まれたことでした。だから暴力を受け、だから感情に振り回され、だから泣き喚く。もし、今の時代に生まれたら、ノンバイナリーというカテゴリーにギリギリ入るかもしれないし、入らないかもしれません。

でも、この身体で生まれたことへのズレは確かに感じるのです。それは、自分から説明しないと分かりづらいことで、詩のような言葉を吐き出せばいいのでしょうが、ゴロゴロと石のような言葉しか出てこないのです。

しかし、このズレが最近、突然消えたのです。草の中の細い道を歩き、海に沈む太陽の光を浴びながら。その瞬間はイカが明かりを照らす漁船に近づいて、獲物になった瞬間でもあります。つまり、仮に光を追って狩られても、その生は無駄ではなく、獲物になる瞬間を受け入れながら、立派な獲物になる。その獲物の美しさは、ハンターにしか分からないでしょう。ハンターの意図にもよるけど、獲物は食べられることによって明らかに生き続ける存在です。ハンターの細胞の一部になり、再生され、ハンターになる。この時、世界は光でできていて、全ての生き物が生まれ続ける開いた世界となる。私の場合、それが女性であることを受け入れる瞬間だったかもしれないのです。

 今は齋藤真理子さんの『本の栞にぶら下がる』を読む手が止まりません。その男のような鋭い思考に、読んでいる私もぶら下がるばかりです。私の知らない日本文学、女性作家、物語たち。また男と女の話か、と思うかもしれませんが、私の悩みを聞いてください。私は逃げられないから。女性であることから。いくら頑張っても。だからもう頑張らないのです。

どこから説明すればいのかわかりませんが、中村敏子の『女性差別はどうつくられてきたか』に書いてるように、アリストテレス、キリスト教、フィルマーの父権論にある「空の容器」としての女性の扱い、ロックに始まり現在に至る男性中心的なリベラリズムと社会契約論、ホッブズの権力論などを考えたおじいちゃんたちの話はわかりやすいですが、そのようにわかりやすいとズレを見逃してしまうのです。

真理子さんが自分の視点から「そしてジャックと自分にあまりに共通点がないことに驚いた。 まずはジャックは男だった」と書いた一文には、私が今まで感じてきた全てのズレが含まれているようです。女と男が互いをカテゴライズするという意味ではなく、私たちはこの世界を経験するポイントが最初からズレていることに気づかないまま生きているだけということなのです。

なので、お互いにズレたままでいいのだけれど、お互いの経験がシェアされるようになってほしい。肉をシェアすると同じように、物語をシェアしましょう。例えば、ヤノマミの映像にあったような出産の体験など、人間として普遍的であっても民族や個人によって違うような物語です。この違い、つまり差異を受け入れる世界であって欲しいのです。

今度は、尹さんから男性としての経験を聞いてみたいです。それに、尹さんを生んだ女性のことがとても気になっていまして、ぜひとも教えてほしいです。私も今苦しんでいる子育てのことなど、これからズレながら書いていきたいのです。

著者プロフィール
尹雄大 × イリナ・グリゴレ

尹雄大(ゆん・うんで)
1970年、神戸市生まれ。テレビ制作会社勤務を経てライターになる。主な著書に『つながり過ぎないでいい』『さよなら、男社会』(ともに亜紀書房)、『異聞風土記』(晶文社)、『体の知性を取り戻す』(講談社現代新書)など。身体や言葉の関わりに興味を持っており、その一環としてインタビューセッションを行なっている。

イリナ・グリゴレ
1984年ルーマニア生まれ。2006年に日本に留学し、2007年に獅子舞の調査をはじめる。
一時帰国後2009年に国費留学生として来日。弘前大学大学院修士課程修了後、東京大学大学院博士課程に入学。主な研究テーマは北東北の獅子舞、日本で生活する女性の身体とジェンダーに関する映像人類学的研究。現在はオートエスノグラフィー、日本における移民の研究を始めている。