ままならない私たち~生きづらさを身体から考える

この連載について

「前へならえ」と言われたら、すぐにできるように「身体をしつけて」しまった私たちは、いつしか身体の声が聞こえなくなっているのかもしれません。
「小さく前へならえ」ができずに体が硬直してしまった経験のある尹さんと、社会主義国家による身体活動によって尊厳を傷つけられたと感じたグリゴレさん(その後チェルノブイリでの被爆体験も…)。
2人の身体は、自分の意識ではコントロールできない領域で、もっと敏感に色々なことを感じているようです。
自分だけのものだと思っていた「身体の違和感」をもっと見つめてみたら、生きづらさが和らぐかも。
そんな願いから、往復書簡がスタートしました。

踊る祖母 尹より

2023年10月1日掲載

 何歳からとはっきり言えませんが、漢字が読めるようになったときから私には不思議な感覚が付きまとうようになりました。それは初めて目にする字であっても読み方がわかるというものです。文字が読み方を教えてくれるのです。

 だからと言って「この文字はこうやって読むんだよ」と親切に言ってくれるわけではありません。文字に近づくと自然と音が聞こえてくるのです。ささやきといった明確な声として聞こえるわけでもないのです。今となっては、そのときの体感を正確に表すことはできず、もどかしい限りです。

 小学校では漢字テストが頻繁に行われていました。私にはテストの意味がまるでわかりませんでした。問題用紙に答えが書いてあるようなものだからです。こうした感覚は14歳あたりで消えました。

 先ほど「不思議な感覚」と述べましたが、漢字の原点を考えると、実はおかしなことでもないし、似たような経験をした人もいるのではないでしょうか。

 

 古代中国で漢字が創り出されたわけですが、とはいえ、人が作為的にデザインしたわけではないでしょう。文字になる前の何か。世界に漂う気配ともいうべきものとの交感によって、そのようにしか観えないものを身体を通して形に現したのではないかと思います。そうしたルーツを漢字が持ち、一つひとつの文字が歴史を内包しているのであれば、文字を目の当たりにした途端、長い物語に感化され、私みたいに読み方がわかってしまうといったことも起きてもおかしくないなと思うのです。

 漢字は甲骨文字が起源とされ、その発端は卜占です。卜占(ぼくせん)では甲骨に傷をつけ、裏面から灼(や)き、主に縦方向に規則的に走るヒビによって吉凶を占いました。その際、前もって占うべきことがら「貞辞(ていじ)」を甲骨に刻んでいて、これが最初の呪能文字であり、5000種あまりが確認されています。呪能とは、人が文字に込めた働きです。

 漢字研究の第一人者である白川静は、呪を「世界を実感させる最初の力」と解釈しました。呪とは「祝うこと、念じること、どこかへ行くこと、何かを探すこと、出来事が起きること」といった人が現実に働きかける際に抱く強い願いや思いを意味しています。

 前回イリナさんも話題にされていたベイトソンは、サイバネティクスの研究でも知られています。その方面に関しての言及によれば、ガラスのように均質で純度の高い物質になればなるほど、その割れ方は予測不能だが、あらかじめ傷をつけておけば、おおよそ予測可能になるそうです。つまり、獣骨や甲羅につけた傷は、人が世界の運行に対して立てた仮説であり、ひび割れは実証結果です。仮説と結果とのズレによって、占うもの、願うものの可能性を量ることができるというわけです。

 文字にするとは、物事を概念化することです。花という花はないけれど、それを花と呼ぶ。そうして初めて誰もが花について語ることができます。概念化が高じた結果、何が起きたかと言えば、ご覧の通りです。現代では文字で確認できる情報と自分を照らし合わせ、確定していれば安心。そうでなければ不安を見出すようになっています。今では文字はすっかりそのようなツールとしての扱いです。

 それに慣れると身体はこわばり、萎縮し、弱くなっていきます。文字という他者と自分とを同一化させていくからです。私たちは他者を他者として自分を自分として尊重できない時代に生きていると言えます。

 「生きづらい」というよく耳にする文字の連なりがあります。これに自分を重ねて現状を確認するというのも、他者との同一化であり、まさしく呪文を唱えていると言えます。そこには白川静が呪に見出した「世界を実感させる最初の力」は見当たりません。

 呪と卜占、世界を実感させる最初の力で思い出したのは、私の祖母です。彼女は日本語の読み書きができませんでした。祖母は1930年代に朝鮮から日本に渡ってき、京都で一生を終えました。渡日の理由は断片的にしかわかっていません。親族の話によれば、それまでの祖母は首都のソウルに住み、女学校に通っていたそうです。

 当時の朝鮮は日本の支配下にありました。女学校には日本人の子弟でもなかなか通えるものではなかったと聞いています。勉強が嫌いだった祖母は学校からの帰り道、教科書を川に投げ捨て、このまま帰宅しては怒られると思い、家出した。その先が日本だった。私が聞いた来日の顛末はこういったものです。ひとつひとつのエピソードは事実でも、つぎはぎを感じる物語で、だから彼女が実際にどのような人生を送ったのか。確かなことはわからないのです。

 幼い頃、祖母が菓子を買ってやろうと駄菓子屋に連れて行ってくれました。祖母は私が欲しいと言ったものが店内にあるにもかかわらず、それを見つけることができませんでした。文字を読めないからです。それに気づいた時、私は後ずさりました。本人でもないのに、なぜか引け目を感じ、恥ずかしさを覚えたのです。それは父が普段から「教養は力、金を稼ぐのも力、喧嘩も力」と口にしていたことも影響していたでしょう。朝鮮人が日本で生きていく上で被る差別に抗うには、力がないとどうにもならない。父は祖母を愛していたでしょうが、その無力さを受け入れ難く感じていたのかもしれません。

 祖母は気性の激しい人で、息子夫婦たちとの同居を試みてもうまくいかず、いつからか長屋で暮らしていました。当然ながら母との折り合いは悪く、私たち家族は盆と正月だけ祖母のもとを訪ねました。

 トイレが共同の昼でも暗いアパートの一室に入ると、すぐ左手に仏壇があり、その奥に暗い金色をたたえた仏画が飾ってありました。訪れた際は、仏壇の燭台の蝋燭は灯っていましたが、その炎がちっとも明るくなく、仏画の漂わせる暗さを強調しているように感じたものです。とにかく部屋の一角に禍々しい雰囲気が漂っていました。

 ある日、父が「もうええ加減にしときや」と祖母に何かをやめるように諭していました。それが何かはわかりません。祖母が亡くなってから知ったのは、彼女はシャーマンで、巫祝を生業のひとつにしていたことでした。父は卜占をやめよと言っていたのでした。

 祖母は40代後半の頃、ある日突然神がかりになりました。このような現象を降神巫(こうしんふ)と言います。世襲の巫祝(ふしゅく)と違い、極度の貧窮や立ち行かない暮らしの重圧から神がかりになるパターンです。日本だと大本教の出口ナオや天理教の中山みきが降神巫にあたるでしょう。祖母はまさに困窮極まる日々を送っていました。祖父は酒に溺れメチルアルコールに手を出し廃人と化し、早々に亡くなりました。父は「俺の親父は物心ついた頃には、もう親父ではなかった」と漏らしたことがあります。「もう親父ではなかった」の響きに苦さを感じたのを覚えています。

 子供7人を抱えて喘ぐ暮らし中での神がかり。その後、彼女は桂川のほとりに住んでいたムーダン(巫堂)のもとで修行し、自ら卜占を始めたそうです。当時、一家が住んでいたのは、被差別部落と隣り合わせの、雨が降れば地面はぬかるみ、共同便所はあふれ、父曰く「人間の住むところではなかった」ところです。一帯は何を生業にしているのかわからない人たちが暮らしており、祖母は濁酒(どぶろく)づくりと占いで崩れそうな暮らしのなけなしの支えとしていました。

 混沌とした細民窟であれば、祖母の振る舞いも相応しく映えたでしょう。ぐるぐると旋回して踊り、両手には本当なら剣を握るところを包丁を代わりとし、クライマックスにはそれを投げる。

 時が経ち、やがてスラムも整備され、安普請とはいえあふれないトイレを備えたアパートが立ち並び、地面もアスファルトが敷かれるようになり、祖母の踊りを伴う占いは奇矯な振る舞いと見え始めた。だから父を含む息子たちはやめさせようとしたのです。

 幼い私は文字が読めない祖母を恥じました。でもその羞恥は私そのものではなく、父の感覚の写しであったと今ではわかります。祖母の踊るさまを見たかった。きっと緩やかな足運びに始まり、次第に激しく旋回したのでしょう。その踊りの最中で彼女の目に映っていたものは何か。今となっては知るよしもないけれど、彼女の見た景色に手を伸ばしたい。私が人の声を聞き、文字にすることにこだわるのは、祖母が垣間見た「世界を実感させる最初の力」を知りたいからかもしれません。

 文字は世界を確定することのみにかまけるためにあるのではなく、人が生きていることと世界のズレを知るための手がかりとしてあるはずです。私は文字は、過ぎ去ってしまったかけがえのない出来事の消失と名残を示唆しているように思えます。花を花と呼ぶしかない。けれど、私の見た花はそれではない。私の花はもう過ぎ去ってしまった。

 文字は呪であり祝であるような、物事の際立ちを消し去っていく。私たちが知るのは、いつもそれではない何かなのです。

著者プロフィール
尹雄大 × イリナ・グリゴレ

尹雄大(ゆん・うんで)
1970年、神戸市生まれ。テレビ制作会社勤務を経てライターになる。主な著書に『つながり過ぎないでいい』『さよなら、男社会』(ともに亜紀書房)、『異聞風土記』(晶文社)、『体の知性を取り戻す』(講談社現代新書)など。身体や言葉の関わりに興味を持っており、その一環としてインタビューセッションを行なっている。

イリナ・グリゴレ
1984年ルーマニア生まれ。2006年に日本に留学し、2007年に獅子舞の調査をはじめる。
一時帰国後2009年に国費留学生として来日。弘前大学大学院修士課程修了後、東京大学大学院博士課程に入学。主な研究テーマは北東北の獅子舞、日本で生活する女性の身体とジェンダーに関する映像人類学的研究。現在はオートエスノグラフィー、日本における移民の研究を始めている。