「前へならえ」と言われたら、すぐにできるように「身体をしつけて」しまった私たちは、いつしか身体の声が聞こえなくなっているのかもしれません。
「小さく前へならえ」ができずに体が硬直してしまった経験のある尹さんと、社会主義国家による身体活動によって尊厳を傷つけられたと感じたグリゴレさん(その後チェルノブイリでの被爆体験も…)。
2人の身体は、自分の意識ではコントロールできない領域で、もっと敏感に色々なことを感じているようです。
自分だけのものだと思っていた「身体の違和感」をもっと見つめてみたら、生きづらさが和らぐかも。
そんな願いから、往復書簡がスタートしました。
生まれることと生きること 尹より
この世界に身体として存在していること。手で肌に触れれば、確かに自分を感じます。手に伝わる肌の温もりや湿り、節くれだった手の甲がありありと生きてきた年数だけの存在の確かさを感じさせます。
でも同時にこのように感じることが「存在すること」を本当に保証するのだろうか?と思いもするのは、何もうがった見方ではないし、過度に文学的な気分に浸ってのことでもなく、「同じ川に二度入ることはできない」と古代の哲人が述べた通りだからです。確かに感じたことが、揺るぎなく私が存在することを必ずしも裏付けるわけではない。これは人間にとって周知の事実なのですが、ついそのことを忘れてしまいがちです。
触れている私も触れられている私も常に揺らいでいる。手に触れるものすべてがそのような揺らぎに満ちているのであれば、この世界の存在をたちまち疑い、絶望してもおかしくないのかもしれません。でも、その筋道は(イリナさんの言い回しを借りるなら)「世界に複数のパースペクティブがあることを示す」上でかなり物足りないなと思います。
あることとないこと。その確かさと不確かさはいつも汀(みぎわ)を洗う波のようにして、その都度、あちらとこちらの境界線を変えていき、さっきまで確かについていたはずの足跡を消していきます。「最良の走者は跡を残さず」と老子は言いますが、「跡を残さず」と文字に敢えて残してしまわざるをえなくなったのは、人間が文字を知ってしまったことと、もしかしたら関係しているのかもしれませんね。自然と文化の境界もそれに似て、足跡をつけてしまった来し方を振り返って初めて文化の刻印を知るのでしょう。
私が前回に記した「人間の住むところではない」は多分に否定的な意味を含んでいたのですが、イリナさんの身体を通して息を吹き込まれたこの言葉と再び出会うと、私たちは誰しも「人間の住むところではない」ところに住んでいるのかもしれないと思えてきました。私たちはこの重力下で生きることにまだ慣れていないようです。
ヤノマミと呼ばれる先住民族がアマゾンに住んでいます。出産を終えた母親は、生まれたばかりの赤ん坊を懐に抱く前に人間か精霊かを見極め、精霊であれば天に還すと聞き及んでいます。数年前、NHKのドキュメンタリーでも取り上げられていました。その行為は「嬰児殺し」ではある一方で、「殺」の文字を当てることに躊躇いを覚えます。「ヤノマミにはヤノマミの文化がある。それを尊重しなくては」といった文化相対主義の見方を持ち出しての判断ではなく、生まれること生きていくことの途方もなさをそこに否応なく見てしまうからです。生まれることと生きていくことは地続きではなく、そこに切れ目がある。
人間か精霊かを見極めるのは、産んだ母親ひとりが決めることで、そこに家族や共同体の合議はありません。そして、その「決める」も果たして私たちが慣れている「もし~だったらどうしよう」や「あのとき~だったからこうなった」と未来や過去を憂い、彷徨った上での選択でしょうか。きっとそうではないのだと思います。
目の前にいる、このなんとも形容し難い、命そのものを形どったような身体は人間なのか。それとも精霊なのか。その判断基準は生命倫理とか人間の外にあるものではなく、母親の内にしかなく、かと言ってそれは彼女が生きてきた年数で蓄えた常識や経験でもなく、「人間の住むところではない」ところに生きてきた、死んでいった背後にいる膨大な祖先ともどもがじっと、彼女を通じて蠢く「それ」を見ている。暗闇の中で静かに赤ん坊と対峙している様を遠くから捉えた映像を見て、私はそんなことを感じました。
母親は「それ」を精霊と見定め、殺しました。彼女はその夜を泣き通し、私の記憶が確かであれば夫と思しき男性に向けて「死んでしまった」という表現でかきくどくのでした。「精霊だから殺した」とあっさりしたものでもなく、自分の中から出てきた我が子になったかもしれない命を天に還した。返さざるえをえなかったその運命を悲しんでいるとしたら、彼女の殺すという選択は彼女であって彼女ではないものによって選ばれざるをえなかった。そこには必然性しかなかったのだろうと思うのです。
共同体がまかなえる食糧には限りがある。さまざまな要因が構造として存在し、育てられる子供の数が決まっている。自覚されない構造が行動を決定づけていて、それが嬰児殺しという形に現れる。ひとつのバースコントロールなのだという見方もあるようです。
ですが、私はこのようにして整然とテキストとして語れてしまう世界の構造に対して、「人間の住むところではない」地に住んでいるという実態を当てがいたいと思うのです。
どうも現代の暮らしに馴染んで生きていると、テキストのような言葉を話し始めることをコミュニケーション能力が巧みだと評価されます。私たちは3次元以上の存在ですが、テキストはこうして右から左へと並べられた直線、つまり2次元に述べられた世界です。3次元以上の何かを2次元にわざわざ落とした、次元の低い話を滑らかさだと思い込んでいるのですから滑稽な話です。
「生まれることと生きていくことは地続きではなく、そこに切れ目がある」と述べました。私たちはこの地に生まれ落ちてきましたが、一方的に産み落とされたわけでもないでしょう。産道を通るには母親の全身全霊をかけたいきみが必要ですが、それだけではなく、赤ん坊と名付けられる前の命の塊との協力が必要なのではないかと思うのです。胎児の「ここから出る」という意志と母親との合力がなければ、生まれてくることは到底かなわないのかもしれない。おぼろに残る微かな記憶を手がかりにそう思うのです。
胎児の「意志」と書きましたが、これは生まれ落ちた後に私たちが見知ってしまった、自覚できてしまう程度の「意志」とは大きく隔たっているでしょう。私たちは「何かをしようとして何かをする」といった時間のたわみ、作為的なことを意志と呼んでいます。でも胎児にはただ産道を「出る」こと。生まれることしかなかったのではないでしょうか。「何かをしようとして何かをする」を文化の営みとすれば、それがない状態は自然であり、生まれ落ちた瞬間から私たちは自然から逸脱してしまう存在です。
ヤノマミに限らず、先住民と呼ばれる人たちは夢と現実とを同じ重みで語る傾向があります。それを不思議に思うのが文明側の感性です。ただし荘子の「胡蝶の夢」あたりになると、文明人の憂鬱めいた格式が与えられます。
夢はこの世界に生まれ落ちてしてしまう前の現実のことだと思えば、夢の世界を確かに私たちは経験してきました。私たちが精霊だった頃の経験と記憶。そして、地上でもそれをやっていくのか。それとも夢は夢として置いて、この「人間の住むところではない」現実を生きるのか。その見極めが「生まれてきたこと」と「生きていくこと」の境目にあって、ヤノマミはそれを問うているのかもしれません。
以前、不意に「生まれて生きて殺す死ぬ」という言葉が降りてきて、そのことについていつか書こうと思いました。殺すとは物騒な言葉であり、普通に暮らしていれば、生きていくことと殺すことは相容れない、と片付けてしまえます。
でも、私が肉や野菜を食べられるのは、私の代わりに誰かが牛や豚や鶏を、野菜を殺しているからです。私の免疫は不断に菌を殺している。人を殺していないから私たちの手は汚れていないのか。動物を殺さなければ、植物ならば殺しても罪悪感はなくて済むのか。
いずれにしても生きていくことと殺生は分けられないのではないか。殺生が生きていくことであり、業を抱えていくことが生きていくこと。このパースペクティブから世界を見たとき、何が観えてくるでしょう。見るのではなく、眼に映るもの。観えてくるもの。心眼と古人が呼んだのは、肉眼では見えないものが確かにあるとわかっていたからでしょう。
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01はじめまして 尹雄大より
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生まれることと生きること 尹より
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尹雄大(ゆん・うんで)
1970年、神戸市生まれ。テレビ制作会社勤務を経てライターになる。主な著書に『つながり過ぎないでいい』『さよなら、男社会』(ともに亜紀書房)、『異聞風土記』(晶文社)、『体の知性を取り戻す』(講談社現代新書)など。身体や言葉の関わりに興味を持っており、その一環としてインタビューセッションを行なっている。
イリナ・グリゴレ
1984年ルーマニア生まれ。2006年に日本に留学し、2007年に獅子舞の調査をはじめる。
一時帰国後2009年に国費留学生として来日。弘前大学大学院修士課程修了後、東京大学大学院博士課程に入学。主な研究テーマは北東北の獅子舞、日本で生活する女性の身体とジェンダーに関する映像人類学的研究。現在はオートエスノグラフィー、日本における移民の研究を始めている。