ままならない私たち~生きづらさを身体から考える

この連載について

「前へならえ」と言われたら、すぐにできるように「身体をしつけて」しまった私たちは、いつしか身体の声が聞こえなくなっているのかもしれません。
「小さく前へならえ」ができずに体が硬直してしまった経験のある尹さんと、社会主義国家による身体活動によって尊厳を傷つけられたと感じたグリゴレさん(その後チェルノブイリでの被爆体験も…)。
2人の身体は、自分の意識ではコントロールできない領域で、もっと敏感に色々なことを感じているようです。
自分だけのものだと思っていた「身体の違和感」をもっと見つめてみたら、生きづらさが和らぐかも。
そんな願いから、往復書簡がスタートしました。

第22回

木漏れ日 イリナより

2024年8月15日掲載

今はイチジクの樹が見える小さな窓の近くに座ってこの文章を書いています。ここはルーマニアですが、この部屋は幼い頃から知っている家の部屋ではありません。人生で二、三回しか会ったことのない知り合いの家にいます。

一晩が経って、「ここはどこ?」と朝に目を覚めると思うのですが、すぐ思い出して泣きたくなった。なんでここにいるのか尹さんに伝えることが出来ない。ここに来たかったと言うこともなく、ここにくることしかできなかったというわけです。

犬が3匹、鶏と鴨10羽以上、ベリー、プラム、トマト、パプリカなどがあります。このイチジクの樹が私の古傷を癒すこともなくただ窓の近くにいる。時々甘いイチジクを食べに鳥が来ます。この家の歴史を私は知らないが、家主から、ここも暴力を振るう男性が住んでいたとわかった。「ルーマニアなら普通だよ」と言われました。「私の経験はまだ話してないよね、恐ろしいよ」。引き出しの上に古い写真がある。若い夫婦の写真。見た目は美男美女で、彼の目がとても元気で、彼女の目が優しそう。この家で何が起きたのか私には分からないが、庭からトウモロコシ畑の向こうに毎晩ピンク色の夕焼けが見える。こんな色を見たことがないと思わせるくらいピンクで、古傷を癒すわけではないが、目が喜ぶというか、一瞬全てを忘れてしまいたくなる。

驚くほど、あんなピンクな夕焼けを見ても何も感じない自分がいた。ただ、ただ壊れたラジオのように「なんでここに来たのか?」と言う言葉が頭の中で繰り返す。5年振りのルーマニア。着いて2日で分かった。こないほうがよかった。

着いて10日でまた身体が傷付けられた。

着いて11日、行くところなく、娘と一緒にほぼ知らない方の家に泊る。

娘たちは楽しんでいる。ビニールのプールで遊んで、ロールキャベツを食べて、村でただ一軒の小さな店でアイスを買ってもらって。

夕方の涼しげな空気を求めて家の外に出ると、外のベンチで休んでいる村人に一人一人説明を求められる。私たちは誰か。日本から来たと伝えると驚く。アイスを食べながら歩いている娘たちは村の子供とほとんど変わらない。この村で暮らしたら幸せになれるかもしれないと思っている自分もいるが、そんなことはないと分かっている。

ルーマニアに来てから誰かの優しい眼を探しているが、家族の中でも周りの人の間でも、教会のイコンの眼の中でも、厳しい、疲れた、怖い、無関心、羨ましいと言う眼しか見ていない。

ここにいると、思ったより世界が終わりに近づいていると感じる。教会に入っても「子供がうるさい」「早くして」と大きな声で叱られる。教会で。ゆっくりお祈りさえできない。

私はずっと日本に住んでいるせいか、ここの世界と比べてのんびりしている。自分も娘も蚊にひどく刺されるし、犬としか仲良く出来ない。

ここにきてからは、人の移動についてずっと考えている。私の祖父母のようにずっと生まれた場所から移動してない人々がいれば、私のようにずっと移動し続ける人もいる。人類の歴史は移動の歴史であり、暴力の歴史でもある。暴力から逃げて移動する人々がいれば、移動先で暴力に遭う人もいる。このループから結局逃げられない。

イギリスでの移民反対運動と人種差別のニュースを見ながら、ルーマニアでも恐ろしいニュースがあった。ブカレストの大きな国立病院で、今年4月のある週末に集中治療室の患者が40人も立て続けに亡くなった。事件の可能性を報道した記者はずっと無視されていたけれども、8月になって二人の医師が殺人の疑いで逮捕された。取り調べで、医師はベッドを空けるために、生きるチャンスがないと判断した入院患者の治療を取りやめることで殺害していた。このことを気づいた看護師の一人が良心の呵責から証言したことですべてが明るみになった。

もともと低かったルーマニアの公的医療システムへの信頼は、この事件のせいでさらに地に落ちた。ルーマニアのテレビC Mの80%は市販薬とサプリメントで、20分に10分くらい、痛み、ダイエット、肝臓、心臓、血圧などなどに効く医薬品などのC Mが流れ、生活のリアリティと比べるとS F小説のようなシーン。医師は病院のベッドを空けるために人の死を早める権利を持つと勝手に勘違いして、医者にかかることを恐れてテレビC Mで見た薬を買い、飲んでも治らない。そして、急速に広まってきたドイツとフランスのスーパーマーケットの資本主義。去年の夏に訪れたバヌアツでも、人が小さな島から大きな島へ医療を受けるため移動していた。町には、植民地化された後の観光産業とスーパーの消費文化の影響で、食生活と身体に大きな変化がもたらされた。薬と病院、妖術と民間治療を同時に使って、それでも病気は治らない。

身体は古傷でいっぱい。ルーマニアではなく、バヌアツの、フィールドワークをした家族の出身地である小さな島へ行けばよかったと、今は蚊に刺されながら思う。その島は船が6か月ごとにしか来ない小さな火山島。地図で見るとそのまま火山が沈んだ丸い形をしていて、人が住める平地が全くない。でも、あの島なら私も幸せになれるかもしれない。ルーマニアは暑くて、汗をかくしハエもたかる。

暗くなってきた。庭のイチジクの木はほとんど見えない。明日か明後日にこの家も出ることになるだろう。3匹目の犬が娘をずっと狙って噛もうとしている。子供が彼のライバルである。

夏のルーマニアは8時半まで暗くならないので常に寝不足な気がする。今年が一番暑いと皆が言う。子供はすでにいくつか怪我をしているし、犬に噛まれるまでにここを出たい。次はどこへ行けばよいかまだ分かっていません。早めに日本に帰ることも考えています。

私にとってルーマニアはとても怖いところです。

前から考えていたのだが、行くところのない子供と母親のシェルターをいつか作りたいです。今日は木漏れ日を見て何年ぶりのような気がしてそう思ったのです。移動する人がどこまで移動すればよいのか分からなくなったのです。

著者プロフィール
尹雄大 × イリナ・グリゴレ

尹雄大(ゆん・うんで)
1970年、神戸市生まれ。テレビ制作会社勤務を経てライターになる。主な著書に『つながり過ぎないでいい』『さよなら、男社会』(ともに亜紀書房)、『異聞風土記』(晶文社)、『体の知性を取り戻す』(講談社現代新書)など。身体や言葉の関わりに興味を持っており、その一環としてインタビューセッションを行なっている。

イリナ・グリゴレ
1984年ルーマニア生まれ。2006年に日本に留学し、2007年に獅子舞の調査をはじめる。
一時帰国後2009年に国費留学生として来日。弘前大学大学院修士課程修了後、東京大学大学院博士課程に入学。主な研究テーマは北東北の獅子舞、日本で生活する女性の身体とジェンダーに関する映像人類学的研究。現在はオートエスノグラフィー、日本における移民の研究を始めている。