ままならない私たち~生きづらさを身体から考える

この連載について

「前へならえ」と言われたら、すぐにできるように「身体をしつけて」しまった私たちは、いつしか身体の声が聞こえなくなっているのかもしれません。
「小さく前へならえ」ができずに体が硬直してしまった経験のある尹さんと、社会主義国家による身体活動によって尊厳を傷つけられたと感じたグリゴレさん(その後チェルノブイリでの被爆体験も…)。
2人の身体は、自分の意識ではコントロールできない領域で、もっと敏感に色々なことを感じているようです。
自分だけのものだと思っていた「身体の違和感」をもっと見つめてみたら、生きづらさが和らぐかも。
そんな願いから、往復書簡がスタートしました。

人間の住むところ イリナより

2023年10月19日掲載

「人間の住むところではなかった」という言葉がしばらく自分の肌から離れなかった。生き物は何でも肌で感じる。文字も。

尹さんの祖母のイメージと共に、刺青のような模様を皮膚に残して調査に出た。飛行機に乗って、10人の女性と小さな船に詰めこまれ、ゆらゆらと進みながら私の皮膚に字のような模様が現れた。人間の住むところを探して、海を渡った尹さんの祖母の想いを想像しながら調査先の島にたどり着いた。その場所で出会った女性たちも尹さんの祖母と同じように、生まれた小さな火山島から移動して、踊って、歌って、子供を育てながら死ぬほど生きてきた。

彼女らの物語をこれから私が伝えなければならないのだが、どうやって人の生を言葉にするのか悩んでいるところだ。そこは「人間が住むところ」とつながる部分でもある。何万年もの前から人が移動し続けているという歴史は、さまざまな形で伝えられてきた。

獅子舞の物語でさえ「人間の物語」である、と調査先の人に言われた。獅子は安住の地を探るところから踊りが始まるから。

それにしても、面を被って踊りとして伝えていこうと昔の人々が考えたことの意味が、今の時代を生きている私たちにとってどんなことなのかと私も考え続けた。尹さんの書いた通り、字の歴史は占い、つまり儀礼的な行為に由来しているのだ。

しかし、現在では西洋的な教育?のもとで私たちは「自然」と「文化」を勝手に分けながら生きている。それがコロニアルな教育であると分からないまま。

文字を読まない方がいいということではないが、文字以前の身体感覚も捨てがたい。フーコーは一生をかけて知と権力の関係を発表したが、彼が言いたかった「知」は知識の知ではなく、知恵の知のことだった。

尹さんの祖母の踊りは尹さんの語りから見えてきた。一瞬だけ。私が調査先で出会う女性と同じだ。強くて、頭がいい。自由で、踊りと唄がうまい。「うまい」という言葉をわざと使った。美味しいものを食べる時すぐ出る言葉。この女性たちの身体は焼きたてパンと同じ。いい香りがする。飲み込むと食べたことがない味だと思う。彼女らはその意味においてシャーマンなのだ。その知は、周りにはなかなか理解されない。文字を読めない代わりに、彼女らは人間ではないものとコミュニケーションをとる。彼女らはこの世のパースペクティブをいくつも知っている。

シャーマンは複数の自然を見る。世界が一つだけではないことを知っている。私たちは非常に小さな狭い世界に住んでいるので、私たちの世界には文字というものが存在するのだ。そうして、本を通して他者と違う世界に出会う。ところが、尹さんの祖母、私の祖母、メラネシアで出会った女性たちは、違う世界と出会うのに文字の助けは必要なかったのだ。

そもそも、「人間」の定義が私たちの世界では怪しいと思いませんか、尹さん。1930年の尹さんの祖母の暮らしの話にもあったように、虚しいコロニアルな考え方がこの世界をいまだに支配し続けているのはないでしょうか。

尹さんの祖母のような存在を私たちは忘れ去ってしまっています。彼女は「人間の住むところではなかった」場所に住み続け、踊り続け、神がかりとして生きる人生を自ら選んだ。彼女は人間の存在が宇宙に住んでいる他の存在と比べて未熟なものであると直感したからかもしれない。

私は彼女の話を聞きたかったし、彼女の見た世界が見たかった。尹さんの中には祖母から受け継いだ世界が眠っている。そして、彼女の声は世に出て、その物語は私にまで届いた。尹さんはまだまだ祖母の声を届ける役目を果たされるのでしょう。

青森県にはイタコという女性シャーマンがいた。男性シャーマンのカミサマもいる。まだイタコに会ったことはないが、男性シャーマンのカミサマに会ったことはある。今年、『ハナコとカミサマ』というタイトルで民族誌映像を撮った。シングルマザーの女性ハナコが何年か前からお世話になっているカミサマに相談に行く話なのだが、この映像を撮ってから現代社会でのシャーマンの必要性に目覚めた。

先ほど、男性と書いたが、この「センセイ」(このようにみんなさんから呼ばれている)は厳密には男性でさえない。人間ではないとも書きたいぐらい妙な存在なのだ。ハナコから聞いたセンセイの奇譚はとてもここで書ききれないが、とにかくセンセイはこの世界を一つのものとして見ない。彼の見ていること、聞いていること、移動しているところは、私たちの知っている世界の何倍、いや、何億倍も豊かで、そこでは動物と植物の見え方も全然違っている。会いに行く度に先生の小さな部屋はありとあらゆる物体で溢れる不思議な空間になっている。「人間の住むところではない」という言葉が当てはまる。

私はエドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロという人類学者から大きな影響を受けている。彼はアマゾンの先住民の研究に携わる中で、西洋的な思想を疑い続けてきた一人である。彼は「パースペクティビズム」の概念を提唱した。これは自文化中心主義の正反対の概念である。これについて説明するときにレヴィ=ストロースの『人種と歴史』という本が引き合いに出されている。アメリカ大陸がコロンブスに「発見」されたころ、スペイン人は先住民の人たちが霊魂を有するかどうか調べていたが、先住民の人たちはといえば、西洋人の身体が腐るかどうか、つまり彼らが人間かあるいは精霊とか死者の類か確かめようとしていたのだそうだ。

このエピソードは、誰が「本当の人間」かどうかお互い調べ、疑い、肌の色など外見が違う相手が本物の人間ではない可能性について考えを巡らせていたという一例である。これは、人間の定義が民族によって違うということも示しているが、先住民の方が身体に執着することにポイントがある。ヴィヴェイロス・デ・カストロも書いているように、アメリカ先住民の方では、スペイン人が魂を持つことに関しては疑ってなかった。その理由は、全ての生き物には霊魂があると理解していたからだ。彼らの関心はスペイン人の身体が人間のものなのか、精霊のものなのかという点にあった。身体とは他の生き物との差異を示す大切なものである。彼らにとって身体は与えられたものではなく、作られたものである。例えば親族関係の中で、食べ物と性行為の身体液の交換、記憶は肉体に記録されるという議論、身の知識論など(デ・カストロ1998:480)。

このように、人類学は世界に複数のパースペクティブがあることを示す役目がある。その一方で、一般の人はどこまで自分が考える「本当の人間らしさ」から抜け出すことができるのか、その考えが自文化中心主義であることに気が付くかといえば、それは難しいことなのかもしれない。レヴィ=ストロースでさえ誤解されている部分がある。本当に彼が伝えたかったのは、彼の名を有名にした構造主義ではなく、違う世界の見方だけであった。

西洋的な思考では分析が入る、つまり、他者は魂があるかどうか、「文化」があるかどうか、そして文字を持つかどうかが焦点になってくる。このようなことで人類について理解できると長い間思われてきたが、そうした発想が誤っているということがようやく認められようとしている。でも残念なことに、学生に授業をすると、そこはなかなか共有してもらえない。鳥肌が立つ。なぜかというと、そうした分析による人間理解は人種差別の一歩手前だから。

尹さんの祖母がどれだけ差別を受けたのか想像がつく。それでもなお彼女はムーダンとして大きな力を持っていた。それは世界を実感させる最初の力である。この世界が人間だけの世界ではないことを伝えることのできる力だ。

5歳の娘が「文字を読めない」と幼稚園の先生から言われたことがある。それは、私がまだ教えていないからと答えたのだが、5歳児が文字を読むのを普通と思う今の世界はちょっと残念だなと思った。文字が分かればもちろん素晴らしい絵本がたくさん読める。そう分かっていても、ひとたび文字を持てば、文字以前の身体に戻れないのは何か寂しい。

子供と先住民は同じだと言うつもりはない。ただ、私が文字を読むとき、違う世界の自然の力が損なわれて行くような感じがする。先進国では知識がステイタスを生み、権威や権力を形作る。ただ、この権力をどう使うのか常に課題となる。自文化中心主義的な教育のない未来を私は夢見る。

 文字を持たない民族は、歌、踊り、儀礼、つまり身体で、人や自然にまつわる大事な物事を未来に伝え続ける。メラネシアの調査先ではこのような生きたコミュニティーを肌で感じた。「肌で感じる」という表現がとてもすごいと思う。肌の色は関係なく、肌というものは何か世界から感じさせるのだ。人間は移動し、安住の地を探し続けた。尹さんの祖母は海を渡って、肌でこの世界を感じながら神がかりとなった。素晴らしい生のあり方。

1998, Cosmological Deixis and Amerindian Perspectivism Eduardo Viveiros de Castro, Museu Nacional , Rio de Janeiro King’s College C,ambridge

著者プロフィール
尹雄大 × イリナ・グリゴレ

尹雄大(ゆん・うんで)
1970年、神戸市生まれ。テレビ制作会社勤務を経てライターになる。主な著書に『つながり過ぎないでいい』『さよなら、男社会』(ともに亜紀書房)、『異聞風土記』(晶文社)、『体の知性を取り戻す』(講談社現代新書)など。身体や言葉の関わりに興味を持っており、その一環としてインタビューセッションを行なっている。

イリナ・グリゴレ
1984年ルーマニア生まれ。2006年に日本に留学し、2007年に獅子舞の調査をはじめる。
一時帰国後2009年に国費留学生として来日。弘前大学大学院修士課程修了後、東京大学大学院博士課程に入学。主な研究テーマは北東北の獅子舞、日本で生活する女性の身体とジェンダーに関する映像人類学的研究。現在はオートエスノグラフィー、日本における移民の研究を始めている。