ままならない私たち~生きづらさを身体から考える

この連載について

「前へならえ」と言われたら、すぐにできるように「身体をしつけて」しまった私たちは、いつしか身体の声が聞こえなくなっているのかもしれません。
「小さく前へならえ」ができずに体が硬直してしまった経験のある尹さんと、社会主義国家による身体活動によって尊厳を傷つけられたと感じたグリゴレさん(その後チェルノブイリでの被爆体験も…)。
2人の身体は、自分の意識ではコントロールできない領域で、もっと敏感に色々なことを感じているようです。
自分だけのものだと思っていた「身体の違和感」をもっと見つめてみたら、生きづらさが和らぐかも。
そんな願いから、往復書簡がスタートしました。

第19回

桜島のほとばしり、風土の力 尹より

2024年7月1日掲載

 朝食はたいてい米粉のパンとコーヒーと決まっているのですが、今朝はさつま芋を蒸しました。中華鍋に水を張り、その上に蒸し器を置いて火にかけます。できあがりまでにコーヒーを2杯飲み終え、布団を干して洗濯を終えた頃に、熱々のさつま芋を皿に移し替える。そそっかしいので、お気に入りの皿を割らないようにそっと取り出して、その上に芋を転がすようにして載っけます。

 湯気の立った芋を見てふと思い出したのは、父の世代には、さつま芋やかぼちゃを嫌う人が多いことでした。戦中や戦後、飢えをしのぐために来る日も来る日も芋とかぼちゃを食べ続け、見るのも嫌になったという証言をわりと耳にします。味に飽きたというよりも、さつま芋とかぼちゃは、貧苦と惨めさを味わった暮らしと重なるから、豊かさを達成した後には思い出したくもない記憶なのでしょう。

 ちなみに父はどちらも嫌っていません。嫌になるほど食べた経験がきっとなかったせいでしょう。何せ食べる物がないから「水を飲んで腹を膨らませた」というくらいだったのですから。

 私は芋もかぼちゃも好きですし、かぼちゃならそぼろ煮が一番好きです。煮含めの具合を確かめるべく落とし蓋を取り上げ、もわっと湯気が立ち込めるとき、出汁やみりんの中に、嗅いだことのないはずの戦争の匂いがふと鼻先をかすめることがあります。昔に比べたら糖度もはるかに高く、美味しくなった野菜なのですから、豊かさと平和の味だけをもたらしても当然なのに、ひょっとした瞬間に戦争がまとわりついた先人の記憶が私に紛れ込む。

 戦争の記憶。それはもうもうと視界をさえぎる硝煙や砲弾のつんざく音ではなく、夏の太陽が容赦なく照り続ける白昼の、生活の立てる音の気配はまるでなく、なすすべもなさが平和にも見えかねない。そんな青空の広がりとして私に染み入ってくるのです。もうすぐ玉音放送が行われる頃のような気配が漂っています。後世の私はまもなく戦争は終わると知っています。でも毎日人は死に続けている。

 さつま芋やかぼちゃを厭う世代が戦後に勝ち得たものが崩壊し続けている時代を生きています。毎日、その無惨さを見せつけられています。それにしても戦争を直接体験しているわけではないし、はるか昔のことでありながら、紛れもなく流民の末裔であり帝国臣民の末葉(まつよう)であるという、海を渡り伝ってきた記憶が瘢痕(はんこん)のようにして私の身体に残っています。   

 父は戦後に北朝鮮へ渡ろうとした。そうしたら私は生まれていなかった。京都に住んでいた祖父母は浮島丸※に乗っていたかもしれない。そうしたら私は生まれていなかった。国家の秘めた、あるいは剥き出しの暴力が私の想像力の原点になっている気がします。

 確かに私は「ハン・ガンの声は柔らかくて、初めて韓国語しゃべれたらなって思った」と綴っていましたね。イリナさんの身体をフリーズさせるくらいの打撃を及ぼしたとはつゆ知らず。幼い頃、韓国語は忌むべきものでした。それを話せばどんな目にあうかは直観的にわかっていたからです。

 祖母は渡日してきた第一世代ですから、むろん韓国語を話せました。日本語はと言えば、生活になんとか間に合う分だけ話せました。文字は読めません。ですから、祖母と買い物に出かける際は、私が代わりに文字を読み上げていました。

 彼女が私に語りかける言葉を私はいつも受け取り損ねていたし、受け取らなかったこともしばしばでした。韓国語の抑揚の中に日本語を無理やり入れ込んだような祖母の言葉。クレオールという洒落た言い方も知らない時代では、野蛮と捉えるほかなかったのです。本当に残酷なことをしていたと今にして思います。

 そんな幼さに見合った愚かさしか持ち合わせていなかった私は、祖母の話に付き合うことに次第に疎ましさを覚えるようになりました。数多い孫の中で異様に私を可愛がり、会うたびに頬を撫でられることに辟易としていました。片膝を立てた姿で撫ぜる仕草も私には異国風に思えたのです。

 私を強くするのは、祖母の国の言葉ではなかった。それに背を向けない限り、強くはなれないと長らく思い込んでいました。では完璧な日本語を目指したのかと言えば、ある種の手本として、祖母の妹がいたのは確かです。彼女は戦前、ソウルの女学校に通っていました。私が11歳のとき、大叔母と初めてソウルで会いました。彼女は祖母とまるで異なる、流暢な日本語で私に話しかけてきました。その調べを耳にして驚きました。それまで聞いたことのない美しい日本語だったのです。でも、その日本語を私は目指すことはできなかった。できるはずもありません。彼女の誦(そらん)じた言葉は帝国下の日本語であり、その帝国はとっくに滅んでいたのですから。

 韓国語に対する姿勢が変わり始めたのは、韓流ドラマが流行り始めた2000年代初頭です。そして、2020年代に入って、目立つようになった若い世代のK-POPへの傾倒、加えて韓国文学の棚を書店で多く見かけるようになったこと。新大久保で降りる10代の若者のバッグに付けられた、おそらくはアイドルの名を記したハングルのキーホルダーを見たとき、自分の強さへのこだわりがほぐれた気がしました。もちろんヘイトスピーチを日常的に目にする現実はありますが、私とはまったく異なる態度で韓国文化に接している世代を見て、韓国語への忌避が薄まったのは確かです。

 祖母の言葉はいつもぶっきらぼうで、その粗野さが韓国語と癒着したものとして記憶されていたのですが、あの日、ハン・ガンの琴の音のような、涼やかな言葉を聞いて、「このような言葉を私もしゃべってみたかった」と思ったのです。本当に心からそう感じました。

 その言葉をしゃべると抑圧された時代であったことを踏まえたら、祖国の言葉を学ぶ機会を奪われたと言えるかもしれない。けれど私は一方的な被害者ではない。私は進んでその言葉を身につけることを視野に入れなかったのですから。

 イリナさんは「日本語との出会いは私の免疫力を高めた」と書かれており、またその日本語は「ソーシャルメディア、テレビ、日常的会話の日本語ではない。小説と詩、方言などの言葉だ。津軽弁、南部弁に触れるととても詩的だと感じるから」と述べています。

 ローカルの言葉には地力がありますね。土地に根ざした言葉がそこに生きる人の背骨を強くすると思います。私の地元は神戸です。では、関西弁は私を強くしたかというと、そこが捻れていて、子供の頃から関西弁が好きではなく、なるべくそれに慣れないようにしてきました。抑揚は関西弁でも標準語に近い言葉をしゃべるように努めてきたのです。

 警戒していたのだと思います。関西では、相手のことを「自分」と呼んだりするのですが、そのような馴れ馴れしさが心底嫌で堪らなかった。加えて、真剣さを回避し、ノリでなんでも笑いにすればいいと思っているところも合わなかった。だから地元の文化と慣れないようにしてきました。硬い言い方をすれば、他者を他者として認めない距離感ゼロの文化と親密になりたくはなかったのです。

 私が日本語を口にすることは、韓国語を話さないと決めたということで成り立っていました。日本語しか話せないにもかかわらず、私には「日本語を獲得してきた」という感覚があります。この国で生きる限り、日本語が普通にしゃべれて当たり前かもしれない。だけど、その普通さを得るまでには、人ぞれぞれの事情があることがまるで目に映らない。「あなた」を「自分」と呼んでしまう、その頓着しない様に我慢ならなかったのでしょう。過敏だったとは思いますが、私とは異なる相手であるはずの目の前にいる「あなた」を「自分」と呼んでも気にならないとすれば、その文化にすっかり同化したときでしょう。

 同化すれば、楽に生きられたかもしれません。それが悪いわけでもないと思います。でも、そのときに私は何かを失ったでしょう。私がここにこうしているのは、ここに至るまでの流れがあってのこと。さつま芋に戦争の匂いを嗅ぎつけるのは、誰かに「平和が大切」だと教えられた成果ではありません。「自分とは一体何者であるのか?」というルーツへの問いが私に迫ってくるから感覚される匂いなのです。同化の楽さは、その問いを手放すことと無縁ではありません。

 楽になるのは負担が軽くなるからですが、それはマイノリティでいることの緊張感からの開放がもたらすでしょう。しかし、その開放感は、マジョリティでもないのに、そちら側につけると思えるときに起こる錯覚ではないでしょうか。

 マジョリティの感性に馴染んだとき、私は「日本語以外も話せたかもしれない」という道筋があったこと。けれどもそれを断念したこと。それは違和感として残り続けているのに、それを潰して均(なら)してしまうことになる。来歴をなかったことにするそんな振る舞いを自らに許すとき、私は強者の立場ではなく、よりいっそう弱い心身になってしまったでしょう。日本語を話すことを選びながら、地元の言葉に馴染めない。違和感だけを頼りにこれまでやってきたのかもしれません。

 先日、仕事で鹿児島へ行きました。どうも私は鹿児島弁が好きなようです。その訛りが我が身に移ること、もしくは身体に映ることを好ましく感じ、語尾についた「ち」や「わっぜ(とても)」を反芻してしまいます。  

 鹿児島弁の抑揚をなぞると、普段とは違う言葉の通り道が身体に生じて、それが足裏から地面を感じさせて心地よい。そんな心持ちを味わいながら街を歩いていたら、沸々と湧き上がる桜島のほとばしりを感じてびっくりしました。何度も鹿児島に来ていますが、初めての体感だったのです。

 ここで生まれ暮らしていたら、この身体感覚も普通のことになります。ならばわざわざ感じるまでもない。旅人だから感じるのだと気づけば、私はずっと馴染むこと親密になることを恐れてきたのだと改めて思いました。そのことによって強く鍛えてきたところもあるでしょうが、違和感だけを生きることの支えにしなくても、いま踏みしめているこの地を、現実を感じて、ただ生きてみるという道もあったのかもしれない。恐れや警戒心を逞しくするだけが全ての生き方ではないはず。関西は合わなかったかもしれない。けれど別の土地の風土の力を借りて、もう少し現実を踏みしめて生きてみたいと近頃思い始めています。

※浮島丸…終戦の年、8月24日に舞鶴港沖で沈没した船。乗船者の多くは、強制労働に従事させられていた在日韓国人とその家族(公式には4000人近くだが、もっと多かったという説もある)で、終戦を機に韓国に帰国する途中で船が沈没し、2000人近い死者と行方不明者を出した。湾内に敷設されていた機雷に接触して沈没したとされているが、報復を恐れた日本海軍将校が爆発させたという説もある。

著者プロフィール
尹雄大 × イリナ・グリゴレ

尹雄大(ゆん・うんで)
1970年、神戸市生まれ。テレビ制作会社勤務を経てライターになる。主な著書に『つながり過ぎないでいい』『さよなら、男社会』(ともに亜紀書房)、『異聞風土記』(晶文社)、『体の知性を取り戻す』(講談社現代新書)など。身体や言葉の関わりに興味を持っており、その一環としてインタビューセッションを行なっている。

イリナ・グリゴレ
1984年ルーマニア生まれ。2006年に日本に留学し、2007年に獅子舞の調査をはじめる。
一時帰国後2009年に国費留学生として来日。弘前大学大学院修士課程修了後、東京大学大学院博士課程に入学。主な研究テーマは北東北の獅子舞、日本で生活する女性の身体とジェンダーに関する映像人類学的研究。現在はオートエスノグラフィー、日本における移民の研究を始めている。