「前へならえ」と言われたら、すぐにできるように「身体をしつけて」しまった私たちは、いつしか身体の声が聞こえなくなっているのかもしれません。
「小さく前へならえ」ができずに体が硬直してしまった経験のある尹さんと、社会主義国家による身体活動によって尊厳を傷つけられたと感じたグリゴレさん(その後チェルノブイリでの被爆体験も…)。
2人の身体は、自分の意識ではコントロールできない領域で、もっと敏感に色々なことを感じているようです。
自分だけのものだと思っていた「身体の違和感」をもっと見つめてみたら、生きづらさが和らぐかも。
そんな願いから、往復書簡がスタートしました。
4月中旬の青森県 イリナより
杏、梅桃(ゆすらうめ)とミモザと共に生きる日々
4月中旬の青森県。子供時代、ルーマニアの広い農家で伸び伸びと生きていた私は、木と草と花に囲まれていないと不安になるので、この家に引っ越してすぐ、狭い庭だけれど木を植えた。
台所の窓に梅桃とエニシダを、リビングの窓から見えるように長女の名前の漢字にも選んだ杏の木を植えた。自分にはたんぽぽのタネのように浮いている感覚が強くあるせいで計画性の全くない人生を送っているが、庭に関してだけは計画と欲望が恐ろしい程ある。
今の家は理想の家だとは言えないが、いつでも出られると思い、選んだ。祖母の家と同じ、東の方角から光がたっぷり入るところと、桜で有名な弘前公園から近いところがよかった。
畑もできれば完璧だが、狭い土地にぎっしりと薔薇、ラズベリー、紫陽花、ハーブ、葡萄まで植え、おまけに鳥のふんから草木がたくさん生えてくるから満足。
家の中も植木だらけで、長い冬を生き残る植物とそうではない植物がいて、植物から勉強を教えてもらう。植物のパースペクティブを共に生きて、何十年が経ってもいまだにそれがうまく掴めない。
植物は話せないと言われるが、実は叫んでいるということが、最近の研究で明らかになってきた。人間の耳で掴めない電波で水が足りない時に叫んでいる。その音の録音もある。思い切り叫ぶという行為は人間もするが、大体周りからあまり好まれていない行為だが、植物の叫びはなぜかいい音がする。
植物の言葉について研究してみたい。言葉と言うか「歌葉」の方がいい。人類学者がフィールドワークに行く時に最初に身につけるべきことは現地の言葉だが、現地の人たちには秘密の言葉もたくさんあるので、一つの言語ではとても足りない。植物の叫びを人間はまだ完全に掴めてないのだから、私たちが住んでいるこの世界は聞こえない音と声だらけなのだ。
たくさんの植木を家中に置いている私が、どれだけ植物の叫びに囲まれているか想像する。叫びというと悪い意味もあって、精神病のイメージでもある有名なムンクの『叫び』が浮かぶ。
でも人間の内面ではなく、人間を超えた世界をもっと意識すべき時代がやってきた。犬が夢を見る、植物が叫ぶ、これから明らかになることがたくさんあるはずだ。私たちは世界について何もわかってないだけ。
今はリビングの窓から満開の杏の木が見えて、台所で料理をするとき外で梅桃の木の花が咲き始めた。今日の私に必要な知識はただこれだけ。先日スーパーの花屋さんで見つけたミモザの木もリビングの横の大きな窓辺で満開だ。
私は生まれてから花の中にいた感覚なので花が大好き。子供の頃、近所のおばさんたちに「花の小さなお母さん」と呼ばれていた。祖父母が植えていた花、一緒に町の市場で売りに行く前の花、家中が花でいっぱい。花の知恵と記憶が多いので、花を食べたり、育てたり、何をしても花とともにいる。
ずっと何年も前から憧れていた花があるけど、まだ完全に育て方がわからない。というより、青森県で育てるのは難しい。それはミモザの花だ。
昨年に植木を買ってから何回も死にそうになって、葉っぱが全部枯れ落ちて、場所を変えて、また同じことの繰り返し。不思議なのは、同じ時期に買って死んだレモンの木と同じようには死なないということ。葉っぱが枯れても小さな葉っぱがまだ出る。この時に私の耳に、人間の耳に、全く届かないミモザの叫びがどれだけすごかったか。
春までにミモザを咲かせる夢が完全に潰れた私だが、4月下旬のある日、スーパーの花屋の店頭に、夢にまで見た光景が目の前に広がっていた。それは、半分満開を迎えている、私の身長より高い、私よりかなり細いけど立派なミモザの木だった。
ちょうどそのとき、2月のフランス南部の満開のミモザの風景を思いながら文章を書き終えたところだったので、小さな奇跡のように思えた。私が思い描いたものが私の目の前に現れるという幸せ。ずっと悲しかった冬を終えた瞬間だった。私は喜びの叫びを、店員さんと娘たちの前で、もちろん抑えなかった。そうだ、叫びとは絶望の叫びだけではなく、喜びの叫びもある。ここ最近、身体が重かったのに、瞬間移動をしたようにミモザの木があったところに自分がいた。ふんわりしたキラキラな黄色い花を自分の手で触らないといられなかった。なんというか、このしあわせ感。誰でもわかるこのふわふわ。ぬいぐるみのような。最近飼い始めた愛犬のキャラメルと同じ、生き物の温かいふわふわとは、初恋のキッスのような。この感覚がこれから私を生かす感覚だ。
以上初めて登場するキャラメルの話も次回にするが、尹さんにお伝えしたいのは他の生き物、動植物との関わりを通じた身体感覚への変化です。
ただ、不思議なことに、この他の生物の温もりについて人に話すと、その植物が枯れたりする。その生き物が亡くなることがあると気づきました。とても怖い。人間の言葉への恐怖、「呪い」とか「妖術」と呼ばれるものがあるから。
言葉に関して言えば、たとえば他の生き物も言葉があるとすれば、植物のように叫びがあるとすれば、人間世界と違って悪い意味では決して使わない。
最近、調査先の女性と1日旅をすることがよくある。その時によく出る言葉が「妬まれる」だ。とても怖い言葉だ。でも私はこの言葉の力に対して植物の知恵から、花の知恵から勉強することがある。
ミモザの木の花があまりにも綺麗で、誰しも感動する。そこには知恵が隠されている。古代ギリシャ語でミモザは、男性形のμῖμος(mimos)で、これに女性形の語尾(osaのように)がつけてmimosaという。
Mimosとはマイム、俳優という意味だ。思想家、哲学者、人類学者の間でも好まれるミメーシスmimesisという概念もここから生み出される。私の研究にも大きな影響を及ばす概念ですが、植物まで広まって、私より植物の方がえらい。
ミモザの葉っぱは夜になると動いている。閉じて、また朝に開くという動きを繰り返す。つまり生きているようにしか見えない。それは生きているからだ。
でも昔の人たちは人間と同じ、意識があって生きているとしか見えないと思って名付けた。植物も意識があるかどうか、ここは議論する場ではないけれども、私は青森のスーパーで出会ったミモザの木を買って、生かされたのは確かなことだ。
店員さんも、「今日届いて、このように咲いた状態は初めて」と言って一緒に車まで運んでくれたが、大きすぎて入れなかったので配達してもらった。その日から家にも私の身体にも春が訪れた。
昔、田舎から街へ引っ越して、とても寂しい思いをした時、たまに道端にキラキラしたものを見つけると、誰かが「これは小人と妖精からのプレゼントだよ。あなたには悲しくなってほしくないから、可愛いものをプレゼントしてくれて喜んでほしいのよ」と言われたことがある。そうだ、今回のミモザの木との出会いも同じだ。なんというか、地球は私たちを悲しい姿で見たくないので、いつも何かプレゼントを送ってくれると思えばいい。
ミモザはアカシアの仲間で、たくさんの種類があって、今回私が出会ったのは「スペクタビリスアカシア」と呼ばれるもので、名前の通り、スペクタクルのような咲き方だ。これも何かのサインだと思う。私もミモザのようにスペクタクルのような人生を楽しめばいいということです。それにしても、ミモザはとても敏感で、また葉っぱはポロポロ落ち、水加減が難しくて枯れそう。と思えば、次の日はまた元気でふわふわの姿に。
調べるとミモザプディカ(mimosa pudica)はオジギソウのことだ。お辞儀をすることとpudica(内気な)という意味とちょっと違う。「触るな」植物とも言われるので、こうしてみればとても面白い。まるで自分から、恥ずかしいから触るなと言っているよう。この感覚がすごくわかる。ちなみにルーマニア語では可愛くて、デリケートで恥ずかしげな女の子はミモザと呼ばれる。
ちょうどこの時期は正教会で復活前の断食をする。これについて次回説明するが「ノリ・メ・タンゲレ」(私に触れるな)とヨハネによる書き残しがある。このシーンはコレッジョやピカソも描いた有名なイメージだ。復活したイエスがマグダラのマリアに言った言葉。文学の世界でも謎に溢れている言葉でさまざまな解釈があるけれども、今回のミモザを触って啓示を受けた。
言葉でさえ、デリケートな世界を触ってはいけない時がある。このデリケートな世界を私たち人間は触っているというより、むしろ壊している。触るということは壊すことの一部だ。触っても壊さない方法を見つけるにはどんなことをすれば良いか、これからゆっくり考えていきたい。
尹さんの10代の女の子との言葉のやり取りがとても良かった。四つん這いで歩けば世界は違う側面から見える、聞こえる。動物と植物に触れて、違うパースペクティブを見つける生き方が今は一番貴重だ。今の時代を生きる私の子供もゲームとユーチューブから離れないが、違う世界を生きてきた私はそうした外の刺激に負けずに、植物と動物の知恵を彼女らに伝え続けていこう。
さて、来週は誕生日。今月末は大好きな海と白神山地の近くの村からワカメと山菜採りに行くので次回は山の幸と海の幸の物語になるでしょう。4月の青森だ。
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尹雄大(ゆん・うんで)
1970年、神戸市生まれ。テレビ制作会社勤務を経てライターになる。主な著書に『つながり過ぎないでいい』『さよなら、男社会』(ともに亜紀書房)、『異聞風土記』(晶文社)、『体の知性を取り戻す』(講談社現代新書)など。身体や言葉の関わりに興味を持っており、その一環としてインタビューセッションを行なっている。
イリナ・グリゴレ
1984年ルーマニア生まれ。2006年に日本に留学し、2007年に獅子舞の調査をはじめる。
一時帰国後2009年に国費留学生として来日。弘前大学大学院修士課程修了後、東京大学大学院博士課程に入学。主な研究テーマは北東北の獅子舞、日本で生活する女性の身体とジェンダーに関する映像人類学的研究。現在はオートエスノグラフィー、日本における移民の研究を始めている。