子育てに迷う

この連載について

自分も子育てでいろいろ悩みながら、子どもの問題について親のカウンセリングを長年続けてきました。また、地域の診療所で外来診察や訪問診療も担当しています。育児の悩みや家庭でのコミュニケーション、そのほか臨床の現場で出会ったこと、考えたことなどを書いてみます。

第3回

誰が息子に現実を教えてくれるのですか

2024年1月19日掲載

昔、ある講演を聞きに行ったときのことです。発達障害や引きこもりに関する講演でした。終わってから会場で出たいくつかの質問のなかで、今も心に引っかかっている質問があります。それは次のようなものでした。

「私は70代で、妻と子どもと3人で暮らしています。もうすぐ40歳になる息子は、大学を出たあと少しだけ会社勤務をしましたが、体調を崩してやめてしまいました。発達障害の診断を受けています。今は家からほとんど外に出ることなく、一日中ゲームをして暮らしています。自分たちのほうが先に亡くなるのだから、そうなったらどうやって生きていくつもりなのか。ずっと不安に思っています。たとえば、最近も、食事のあとの食器は自分で片づけるようにと注意したら、怒って何日も口を聞かなくなりました。少しでもできることを増やすことが大事だと思って注意しているのですが、聞いてもらえません。いったい誰が息子に現実を教えてくれるのでしょうか?」

長いこと苦しんでこられたであろうことが、話をされる姿からも感じられました。講演をされた先生は、「息子さんが生きていてくれるだけでいいと思うことはできませんか?」と、その男性に質問されました。「だって、自分たち親のほうが先に亡くなるんですよ。そうなったら誰が息子の面倒を見てくれるんですか?」と、その人は問い返しました。その後のやり取りは正確には思い出せませんが、すっきりしないままだったと思います。その男性の言葉のなかで、「誰が息子に現実を教えてくれるんですか?」というところが、ずっと私の心に残っています。

その男性にとっての「現実」とは、働かざる者食うべからず、という現実なのだろうと私は受け取りました。いつか親がいなくなれば、息子も生きていかれなくなる、そのことを心配している。外に出て働こうとしない、自分が生きるために必要なお金を自分で稼ごうとしない息子に、もどかしい思いをずっと持ち続けてきたのだろうということが、その口調から感じられました。

コミュニケーションの断絶

それと同時に、それだけ長いあいだ一緒に暮らしてきたのに、いまだに「食事のあとは食器を片づけなさい」というようなことを、40歳に近いという息子さんに言うということ。そこにあるコミュニケーションの大きな断絶を感じました。食器を片づけるのは当たり前なんだから、親がそれを注意するのは当然だ、とか、自分のことを自分でやろうとしないその息子は悪い、というようなことを、問題にしたいのではありません。そうではなくて、そんな注意をしたところで、息子に受け入れられるはずがないことを、すでに父親としてよくわかっているだろうに、なぜそんな注意をせずにおれないのか。私が気になったのはそちらです。もしかしたら、父親のほうにも、なにか発達の偏り(たとえば相手の気持ちを感じるのが苦手、とか、想像力の弱さ、など)があって、そのためにそのようなコミュニケーションの断絶がずっと続いているのかもしれません。

「そうなったら誰が息子の面倒を見てくれるんですか?」という問いに対して、現実的、表面的に答えるならば、「社会が面倒を見る」ということになるでしょう。両親が亡くなり、働くこともしないままであれば、生活費はなくなるでしょうから、その息子さんはこの先、生活保護を受けて生きていくことになるでしょう。面接でお会いする同じような状況の親のなかには、そのような生き方は受け入れづらいと感じる人もおられます。極端な場合には、そんな生き方をするのなら、死んだほうがましだというような言い方をされる方もあります。

ひとつには、生活保護への偏見があるのでしょう。そのような偏見がはびこっていることと、日本では生活保護の捕捉率が他国と比べてかなり低いままであることは、社会的な問題でもあります。そのような問題は今後早急に改善されるべきだと思います。

しかしそのような社会的な問題はおいておくとして、ここで重要なことは、親が亡くなったあとの(いえ、親が亡くなる前であっても)、「子どもの人生は子どものものであって、親のものではない」ということではないでしょうか。どういう形で生きていくかも子どもが決めることです。そして、親はそれを受け入れることが求められる。したがって「誰が息子に現実を教えてくれるんですか?」という問いに対しては、厳しくつらいことかもしれないけれど、「現実を受け入れるべきは親であるあなたのほうですよ」と答えることになるでしょう。

運転しているハンドルに横から手を添える?

久しぶりに、この話を思い出したのは、末っ子が高校3年生になった昨年の4月に、返送されてきた模擬試験の結果を見ながら、子どもと話をしたときでした。彼は家ではほとんど勉強をしていません。希望進学先として書いてある、ある地方国立大学はE判定でした。私は彼に「大学受験をするつもりなら、もっとしっかり勉強しないといけないのではないか」と言いました。勉強しなさいという言葉はめったに言わないのですが、これぐらいはここで一度は言っておくべきだろうと思ったのでした。

それに対して、彼ははっきりと嫌そうな表情をして、「そういうことはわかっているので言われたくない」と言いました。しかし私には彼は全然わかっていないと思えました。たとえば、英語にしても数学にしても、ある程度時間をかけないと、できるようにはならないのだということが、まったくわかっていないと感じました。実際に模擬試験でも点数がほとんどとれていないのに、なぜ彼は現実がわからないのだろうと。

そのときに、ふいにあの父親の言葉が頭に浮かんだのです。「誰が息子に現実を教えてくれるんですか?」。親に「勉強しなさい」などと言われたところで、はいはいと勉強し始めるような子どもではまったくないということを、よくよくわかっているのに、私はなぜこんな注意をしているのか、と思いました。
(これはある友人が言っていたことですが、子どもはもう自分でハンドルを持って運転を始めている。そこに、無神経に助言する親というのは、横からハンドルに手を添えて無理に方向を変えようとしているようなものだ、と。)

このままでいくと、受験はうまくいかないでしょう。しかし、それこそが現実であり、そういう現実を子どもは自分のこととして受け止める。親や先生から言われてした選択ではなく、自分でした選択とその結果を自分のこととして受け取る。その状況にどのように立ち向かうのか。逃げるのか、立ちすくむのか。それこそが彼が味わうべき現実です。なかなか厳しい決断とその後の日々が待っていることでしょう。

子どもがそういう体験をしなければならないということは、親にはとてもつらいことです。スマホの中にたくさんある動画の中の、幼かった彼の笑顔や声が次々と私の記憶に蘇ってきます。しかし、これこそが、親としての私にとっての現実だと思いました。覚悟をしっかりともって、現実を受け入れねばならないのは、私のほうでした。親が思う方向に導こうとしないことで、子どもは(現実に鍛えられたり助けられたりしながら)自分に合った道を選びやすくなる。そういう考えは、カウンセリングの仕事を通して私が得た確信です。

それでも、自分がその場面に立たされると、いくら確信を持っていても、子どものハンドルに触れないでいることは、とても難しいと感じます。

著者プロフィール
田中茂樹

1965年東京都生まれ。医師・臨床心理士。京都大学医学部卒業。文学博士(心理学)。4人の男の子の父親。
現在は、奈良県・佐保川診療所にて、プライマリ・ケア医として地域医療に従事する。20年以上にわたって不登校やひきこもりなどの子どもの問題について、親の相談を受け続けている。
著書に『子どもを信じること』(さいはて社)、『子どもが幸せになることば』(ダイヤモンド社)、『去られるためにそこにいる』(日本評論社)、『子どもの不登校に向きあうとき、おとなが大切にしたいこと』(びーんずネット)がある。