子育てに迷う

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この連載について

自分も子育てでいろいろ悩みながら、子どもの問題について親のカウンセリングを長年続けてきました。また、地域の診療所で外来診察や訪問診療も担当しています。育児の悩みや家庭でのコミュニケーション、そのほか臨床の現場で出会ったこと、考えたことなどを書いてみます。

第47回

スライダープールとスパイダーマン

2025年5月2日掲載

息子がまだ保育園の年長さんだったころ、ある日、プールに行きました。そこには流れるプールとスライダープールがありました。彼は怖がりなので、スライダープールには近づかず、流れるプールで回っておりました。スライダープールは混んでいるようで、階段の下に長い列ができていました。あの列に並ぶのは大変だからこのまま流れていたいと僕は思っていたのですが、1時間ほどして息子はスライダーの方をチラチラ見るようになってきました。

見るとスライダープールの階段の上り口には看板があり、「身長120センチ以下の方は利用できません。身長チェックは厳密に行います」と、大きくはっきりと書いてありました。息子は118センチでした。先週、保育園で身体測定があり、手帳にその数字があったのを僕は覚えていました。ついに彼が「スライダー行きたい」と言いだしたので、僕は「120センチないとだめって書いてあるよ。◯◯は先週の検査で118センチやったやろ。だからまだダメみたいよ」と言いました。しかし、「あれから背、伸びたかも知れへんやん!」と彼はと言いました。

階段には順番待ちの人が結構並んでいます。あれに並んで、上まで行って、やっぱりだめって言われた場合、子どものショックは大きいだろうし、かわいそうだと思いました。「並んでもあかんかったら、つらいやん」と言ってみましたが、彼はもうどうしても行くというモードになってしまっていました。しょうがない、じゃあ並ぼうか、と一緒に列の後ろにつきました。

暑い中、20分ぐらい並んだでしょうか。ようやく階段を上がりはじめました。段を上がるごとに、子どもの顔がだんだんこわばっていきました。僕は、身長がたりないからダメって言われるかな、そればかり気にしていたのですが、彼はそんなことは全然気にしていないことが、表情からわかりました。それよりも、彼は自分の順番が近づいてきているのが怖いのです。だんだん高いところに上がってきているし、上の方から「はい、次の人こちらに来て!はい滑って!」などと、係の人の声が聞こえています。彼は無口で無表情になって、僕の手を握っていました。

ついに一番上につきました。そこには、なんと学校の保健室にある、あの立派な身長計がありました。万事休す。係員の若いお姉さんが「はい、ボク、ここに立って」と息子を呼びました。彼は無表情にロボットのように身長計に近づきました。お姉さんはガチャンと計って「あ、117センチ。ボク、残念やねぇ。また大きくなったら来てね」と笑顔で言いました。

僕は「え~、こんなに並んだのに!3センチぐらいいいやんか!滑らせてやってよ~」と思いました。ところが子どもは、こわばっていた表情がすっかり解けて、笑顔になり、「よかった~!伸びてなかった~」とか言いながら、さっさと階段を下りて行くのです。全然残念がっていない。まあ、僕もすっかり力が抜けました。

その日、家に帰ってから、夕食のとき、彼は兄たちに自慢していました。「今日なぁ、オレなぁ、スライダープール、はじめてやったで。いや、すごかったわぁ、スライダーは」。口調がめちゃ自慢そうです。兄たちから、「へぇ~、滑るの怖くなかった?」と聞かれると、「いや、オレは身長が120センチなかったから、滑るのはあかんかってん」と、そこも実に自慢そうでした。僕はその彼の話す様子を見ながら、彼がいかにスライダープールを満喫したのかをあらためて思い知りました。

大人からすると、せっかく暑い中、長い時間並んだのだから、滑らせてやりたい、と思いますよね。滑らなかったら、並んだ苦労は無駄になってしまう。でも子どもにしてみたら、並ぼうと決意したこと、実際に並んだこと、だんだんと階段を上っていったこと。それらはみなスリル満点の体験だったのだなと、わかりました。身長測定の場面はクライマックスで、身長不足で滑らせてもらえなかったことは、彼にとってはハッピーエンドだった。もう十分に満喫した。

親は結果(スライダーを滑るかどうか)に気持ちが集中してしまうけれど、子どもにとっての体験とは、もっと広がりのあるものなのだとあらためて感じた出来事でした。彼らが体験していること、彼らから見えている世界はどんなものか、そこに目を向けることで、大人には残念な出来事も、実は子どもにはそうではない(その逆もある)のでしょう。

後日談をひとつ書いておきます。あるところで講演したときに、このスライダープールの話をしました。それから1年ほどして、同じ町で講演したときのことです。講演終了後の質疑応答で、一人の女性が手を挙げて話をしてくれました。
「一年前に、ここで先生の話を聞きました。5歳の女の子の母親です。こんなことがあったんです。娘とUSJに行きました。スパイダーマンに乗りたいと娘が言いました。私は『アンタは怖がりなんやから、無理。やめとき』と、言ったんですが、娘は頑固で言い出したら聞きません。しょうがないので、1時間も並びました。ようやく自分たちの順番がきて、乗り込むところになって、娘は『わたし、やっぱ、やめる!』と言って、降りるほうに行ってしまいました。とっさに『なに言うてんのん!』と私は言ったんですが、その瞬間に頭の中に、あのスライダープールの写真が浮かんだんです。これはどっかで聞いたぞって。そこで考えてみたら、いつもは全然辛抱のきかんあの子が、今日は1時間、なんの文句も言わんと並んでたなぁって。それで、これはあれや、ってわかったんです。これは怒るこっちゃないって。なんていうか、私は、母親として一段上がれたんちゃうかなって。そう思えました。それを報告したかったんで今日は来ました。ありがとうございました」

会場は拍手喝采でした。それ以後、スライダープールの話をするときは、スパイダーマンの話もしています。

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著者プロフィール
田中茂樹

1965年東京都生まれ。医師・臨床心理士。京都大学医学部卒業。文学博士(心理学)。4人の男の子の父親。
現在は、奈良県・佐保川診療所にて、プライマリ・ケア医として地域医療に従事する。20年以上にわたって不登校やひきこもりなどの子どもの問題について、親の相談を受け続けている。
著書に『子どもを信じること』(さいはて社)、『子どもが幸せになることば』(ダイヤモンド社)、『去られるためにそこにいる』(日本評論社)、『子どもの不登校に向きあうとき、おとなが大切にしたいこと』(びーんずネット)がある。