子育てに迷う

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この連載について

自分も子育てでいろいろ悩みながら、子どもの問題について親のカウンセリングを長年続けてきました。また、地域の診療所で外来診察や訪問診療も担当しています。育児の悩みや家庭でのコミュニケーション、そのほか臨床の現場で出会ったこと、考えたことなどを書いてみます。

第40回

ツメハラと世間話ハラ

2025年1月31日掲載

私が暮らしている郊外のニュータウンにも自治会があり、自治会の役員の当番が十数年に一度回ってくる。色々と面倒くさいことがあり、なんでこんなことをするのかわからないような雑務もたくさんある。しかし、文句を言っても始まらないので、分担して淡々と決められている通りにやって1年過ごし、次の年の役員に引き継ぐのみ。それが当たり前だと思っていた。

ところが、数年前に役員をしたとき、こんなことがあった。前年度の役員から新年度の役員への引き継ぎの会議でのこと。寒い集会所に集まって、前年の役員の人たちから、役員がする仕事、やった仕事について話を聞いていた。これから一緒に役員をするメンバーの中に、私よりだいぶ若い人がいた。その人は、話を聞いている途中で、前年度の役員の人たちの話を遮って聞いた。
「あの、今こうやって話を聞いていますが、これはただ聞いておくだけでいいのですか? メモをしておいて、後で何かしなければいけないでしょうか? 私は家族の世話とかもあって忙しいので、申し訳ないのですが、必要なことだけを伺うことはできますか?」
この話には、前年度の役員の人たちや、新年度の役員である私たちも皆、驚いた。始業式なんかで、校長先生がいつものように何度も聞いたことのある同じような話をだらだらとしているときに、生徒が「あの、この話をずっと聞かなければいけないのですか?」と聞いたみたいなインパクトだった(それにしても、僕がついてなかっただけかもしれませんが、校長先生の話を聞くのは、ほんまに不毛な時間でした。退屈でいたずらをして叱られたりして)。

皆、なにか、してはいけないこと、言ってはいけないことを、その人が言ったような気がしたのだと思う。気まずい空気が流れた。しかし、面白いことに、その発言で、前年度の役員の人たちの思い出話は打ち切りになり、引き継ぎの会議はあっさり終わった。

言われてみれば、その人の言うとおりで、「こんな苦労をした」「こんなことがあった」など、しばしば脱線する前年度の役員さん(いわば先輩)の話を、なぜ私たちは「後輩」であるというだけで、じっと辛抱して聞かなくてはならないのか。役員の仕事を引き継ぐうえで本当に大切なのであれば、レジュメを作るなどして連絡事項として伝えてくれればいいだけのことである。目的のわからない話をずっと聞かされているのは、会場が寒く、いつ終わるかわからないということもあって、私は確かに苦痛を感じていた。

ちなみに、その若い人は、新年度に自分から会長を引き受けてくださり、今まで慣習的にやっていたいろいろな行事や仕事を、ばっさりと断捨離してくれた。「これは廃止しても問題ないのではないでしょうか?」と、たくさんの項目を挙げて、廃止する理由も書き添えて。私は役員は2回目であったが、前に役員をしたときに、いろいろ無駄だと思ったものの、それをやめたりできるとは夢にも思わなかった。しかし新しい会長さんは「規則を変える場合は、こういう手続きで変えるそうですよ」とか、「会則を変える場合には、こういう形で総会をひらいたらいいそうですよ」などと、ちゃんと「会則」に従って、ほかの役員の同意も丁寧に得ながら、また必要な会議を行って、私には(おそらくほとんどの人に)無駄だと思えていた自治会の仕事や行事、手続きを、文字通りバッサリと減らしてくれた。これなら役員になるのを嫌がる人とか、自治会を辞めたいと言う人も減るのではないかと思えた。若い世代の人の自由な考え方を目の当たりにして学ぶことが多かった。

断捨離したことのほんの一例としては、たとえば、年に2回実施している公園の掃除で出席をとること。掃除は日曜日にするのだが、日曜日に仕事がある人や、介護で遠くの実家に行かねばならない人など、それぞれはずせない予定のある人もいた。しかし出席をとられるということで無理をして掃除に参加している人も多くいた。実際には市からの依頼で業者も公園の掃除を定期的にしているので、掃除の必要性はそれほどないにも関わらず、である。また、掃除に参加した人に飲み物を配ることも、廃止された。役員は、前日までに飲み物を買って保管しておき、冷やして持っていき配布して、空き缶やペットボトルを片づける。そういうことはかなり面倒な仕事だった。飲み物なんて、自分で水筒を持ってきたらいいだけのことだったのに。しかし、これまで、そうやってきたのだから仕方がないと、みんな(とくに私やそれより上の世代)は考えていたのだ。でも、それは変えられない規則では全然なかった。

さて、少し話が逸れたが、僕が書きたいのは、ハラスメントについてである。上の例で言えば、なんのためかわからない話を上の立場の人から聞かされるという苦痛を私は感じた。これは仕方のないことだ、と聞かされていた。「上の立場」の人=前年度役員をした人=先輩から、苦労話や思い出話を聞かされるということは、受け入れなければいけないことだと、納得していた。しょうがない時間なのだと、「低い立場」である私たちはあきらめていた。ここに、ハラスメントの要素が入っているのではないかと思った。

「ツメハラ」という言葉があることを最近知った。職場など、ほかの人がいる場所で爪を切ることだそうだ。勤務先である診療所の机の引き出しに爪切りが入れてある。空いた時間などに爪を切っていた。同僚の目の前では切ることはないが(それはなんとなく失礼だと思っていたのでしょうね)、一人のときに切ったとしてもパチンパチンという音は隣の部屋にも聞こえていただろう。考えてみると、診療所では自分は一人上司であって、同僚はみんな部下である。ほかの同僚の誰かで、職場で爪を切っている人はいない(私が気がついた範囲ではいない)。そんなことは家でしてくることなのだ。

なんでもハラスメントという風潮に反発する人がいることも知っている。また、職場で爪を切ることが悪いことかどうか、そこはエチケットの問題も相まって、意見もいろいろあるだろう。ここでポイントにしたいのは、立場の問題である。所長である私は、あまり気にせず爪を切るが、ほかの人は切らないということだ。そして、そのことを今回ハラスメントという視点で考えるまでは、意識したことがなかったということだ。

そういうことを思うようになって、同僚との関係を意識してみると、世間話をすることにも、こういう要素があると気がついた。月曜日、仕事が始まる前の短い時間などに、私は看護師さんや事務職員さんに、休日中にあった出来事などを気楽に話すことが多い。自転車で転んだんだよ、とか、実家までみかんの木の剪定に行った、とかである。自分としては、そうやって軽い話をすることで、職場の空気が和むのではないかと思っていた節がある。しかし、よく考えてみると、爪切りの場合と同じで、部下である同僚たちから、昨日こんなことがあったんですよ、家族がこんなことしたんですよ、などと気楽に就業時間前に話を切り出されたことはほとんどない。もし、そんなことがあったら、私は違和感を感じるだろう。なぜ、今、そんな話をするのだろう、と。しかし、自分の話は聞いてもらえると思い込んでいる。だから、いつも私のほうからしゃべっていて、それを彼ら彼女らは(表面的には)にこやかに、聞いてくれている。これだって、立場が上のものが相手に押しつけている。一種のハラスメントの状況だ。

親と子どもの関係でも同じことが言えると思う。立場は親が圧倒的に上である。親はそういうことを思っていない。気楽に、子どもに対して自分の思っていることを言う。子どもも気楽に言い返せるようであればよいが、内容によってはなかなか言い返しづらいこともあるだろう。親は気楽に意見したつもりでも、それが子どもに意外と重たい言葉になっていることもあるかもしれない。あなたは何々には向いてないねとか、あなたは何々が得意だからこうしたほうがいいよ、などと気楽に言った親の言葉が、子どもには意外と重く届いてしまい、進路の選択にまで大きな影響与えるようなことに、なることもあるかも。

大体の場合において、立場からして、子どもは聞くのが当たり前で、親は気楽に何でも話すことができる。これって、職場での爪切りや世間話で私が感じたハラスメントの構造と同じかもしれない。まずは相手がどう感じているのか、もし同じことを相手が自分にしたら、自分はどう感じるのか、など、今まであまり意識していなかったこと(本当は意識すべきだったこと)についても、今年はちゃんと考えてみようと思っています。

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著者プロフィール
田中茂樹

1965年東京都生まれ。医師・臨床心理士。京都大学医学部卒業。文学博士(心理学)。4人の男の子の父親。
現在は、奈良県・佐保川診療所にて、プライマリ・ケア医として地域医療に従事する。20年以上にわたって不登校やひきこもりなどの子どもの問題について、親の相談を受け続けている。
著書に『子どもを信じること』(さいはて社)、『子どもが幸せになることば』(ダイヤモンド社)、『去られるためにそこにいる』(日本評論社)、『子どもの不登校に向きあうとき、おとなが大切にしたいこと』(びーんずネット)がある。