子育てに迷う

この連載について

自分も子育てでいろいろ悩みながら、子どもの問題について親のカウンセリングを長年続けてきました。また、地域の診療所で外来診察や訪問診療も担当しています。育児の悩みや家庭でのコミュニケーション、そのほか臨床の現場で出会ったこと、考えたことなどを書いてみます。

第7回

ある幸福な一日

2024年4月5日掲載

四国のT市に実家がある。母親が数年前に亡くなってからは、父親が一人で暮らしている。月に一度、父の様子を見に実家に日帰りで車で行く。妻もついてきてくれる。昨日、いつものように朝に京都を出て車で実家に向かった。3時間弱で着く。父親の顔を見て、近況を聞いたあと、裏庭の果樹の手入れをした。夏みかんや枇杷、柿などの木が少しある。

剪定した枝を切り揃えて、束ねてゴミに出せるようにして、収穫した甘夏みかんでいっぱいの重い収穫袋をトランクに入れた。予定していた作業は1時間ほどで完了した。そのあとはいつも、近所のうどん屋にお昼を食べにいく。それが楽しみで帰省しているようなものである。父親はお気に入りのうどん店が違うので、そこには行かない。私はいつもカレーうどんを食べるが、妻はおろしぶっかけなど、もっと通っぽい(と彼女の言う)ものを食べる。「うどん自慢の土地の出身なのに、いつもカレーうどんなんやなぁ」と妻は私をからかう。うどんが自慢なのは隣の県だと私が言い返す。これもいつものこと。

満足してうどん屋を出て実家に戻る途中、1車線の道路で右折待ちをしていて、後ろから追突された。大きな音とかなりの衝撃でびっくりしたが、エアバッグは開かなかった。妻も私もケガはないようだった。エンジンは止まっていた。始動して、左の路肩に寄せた。車(デミオ)は左後ろの部分がかなり変形し、ライトも破損。左後ろのタイヤもパンクしていた。これでは今日はこの車で帰れないな、と思ったのを覚えている。相手の車(ピンク色の軽自動車だった)の状況を見に行った。

軽自動車は交差点のなかで、車線をふさいで止まっていた。右前方が凹んでおりライトが割れ、路面に破片が散っている。こちらもエアバッグは開いていなかった。運転席にいるのは女性で、助手席には荷物が乗っており、後ろ座席には小さな子どもが3人乗っていた。母親も無事なように見える。子どもたちも(血の出るような)ケガはないようだった。子どもたちは、6歳、4歳、2歳ぐらいだろうか。「こわい〜!」と大きな声で泣いていた。車線がふさがれているため、後ろには車が10台ほど連なっているのが見えた。妻と私で、後ろのドアを開けて子どもたちを車から下ろし、手をつないだり抱えたりして、道路から離れた場所に避難させた。そこは整骨院の駐車場だった。

血の気のない表情でただ「すみません」と繰り返すばかりのその母親は、ショックで車から降りられないようだった。運転席の下にオイルのような液体のシミが拡がっていた。私も動揺していたが、エンジンを止めるようにその母親に言った。車から離れたほうがいいような気がしたので、ドアを開けて、母親をおろして、子どもたちのところに連れていった。駐車場では、妻が泣いている子どもたちを座らせて、大丈夫だよとなぐさめていた。母親がくると子どもたちがまわりにくっついた。

警察への連絡が、なかなかてこずった。スマホでかける場合には、#を押して何か特殊な番号を押すのだったか? などと混乱していた。(実際には、電話で110と押せばいい。ほかの方法としては、電源ボタンを押し続けると、「電源オフ」「再起動」などのアイコンと一緒に「緊急電話」のアイコンが表示される。それを押すのでもよかった。これまでもよく見ていたのに、このときは思いつかなかった。)
電話に出た警察官と話しながら、場所などを確認するうちに、落ち着いてきた。動揺している連絡者を落ち着かせる接し方をしてもらったからだろう。

そのあと、保険会社に連絡した。車検証と一緒に入れてある保険の書類の番号にかけた。保険会社へはすぐつながり、「大丈夫ですか?」とまず聞かれた。いたわりのある声の調子で。それは彼らには決まり事なのだろうけど、すごく安心した。そのあたりで、私は左手の指や手のひらがこむらがえりの状態になっていることに気がついた。ぐーぱーを繰り返してこむらがえりを治そうとしながら、相手の質問に答えていった。京都から四国に来ていることを話すと、レッカーで運べることなどを説明してくれた。京都といっても、奈良との県境に私は住んでおり、勤務先も奈良である。車の修理も奈良の自動車会社にいつも頼んでいる。保険会社の人は、すぐレッカーの手配をするので奈良まで運んでもらえばよい、などと教えてくれた。

車が道をふさいだままなので、押して路肩に寄せたほうがいいかもしれないと思ったが、動揺していて、自分がそれをすべきかどうかわからなかった。通りかかった車から降りた人が、誘導をはじめてくれていた。Uターンしていく車も見えた。母親は、スマホを持って座り込んでいた。真っ青な顔をしている。そのうちに子どもたちは泣きやんだ。上から女の子、女の子、男の子である。パトカーが2台来て、私はいろいろ質問された。警察官たちが止まっていた軽自動車を押して、道路のつまりを解消した。そこに、大きなSUVがやってきた。60歳ぐらいの大柄な女性が降りてきて、私や妻に近づきながら、すみません、すみません、と明るい声で言った。座っていた子どもたちが「ばーば!」と笑顔になって立ち上がり、走っていってばーばの大きな車に乗り込んだ。「『ママがじこった』って孫からラインが来ました」とその女性は朗らかに言った。上のお姉ちゃんが、スマホで祖母に連絡したのだった。おばあちゃんは笑顔だった。とにかく娘も孫もケガがなくてよかったと思っているのが伝わってきた。

祖母の連絡を受けてやってきた自動車屋さん(保険の手続きもしているとのこと)が、運転者の住所や名前、連絡先の載った書類を見せてくれて、私はスマホで写真を撮った。その人に、こちらの連絡先、保険書類なども見せた。レッカー車が2台きて、それぞれの車を運んでいった。開かなくなったトランクの中の甘夏みかんもそのままに。

私たちは、母親、祖母、自動車屋さんにあいさつして、歩いて実家へ向かった。事故現場から実家までは300メートルほどである。途中で道を少し逸れると私の母の墓がある。そこに寄っていこうと妻が言った。私の母親の墓の前で妻は手を合わせて「ありがとうございました」と明るく言った。たしかに、いつか何かの事故に遭うのだとしたら、これぐらいで済んで本当に幸運だったと私も思った。妻の父は、妻が中学生のときに、車にはねられて亡くなっている。

実家にもどり、父親に事故のことを話した。「ケガがなくてよかったなぁ」と父も明るく言った。タクシーで徳島駅に向かい、そこから大阪までバスに乗った。バスの中で、自分や相手の保険会社の担当者から次々と電話がかかってきた。大阪からは電車で家に帰り着いた。夜7時を過ぎていた。

電車の中で、「家に帰ったらテルに電話しようよ」と妻が言った。私も息子の声が聞きたくなっていた。この連載の第3回「誰が息子に現実を教えてくれるのですか」で少し書いたが、結局わが家の末っ子テルは、ほとんど受験勉強をしないままに過ごした。正月明けごろから、彼なりに勉強に取り組んだ。そんな短い受験勉強は、私には理解できないことであったけれど。そして、唯一受かった東京のある私立大学に通うことになった。3月23日に引っ越して家を出ていった。机を買うとか、パソコンを買うとかでLINEのやりとりはしたが、声は家を出て以来聞いていない。

食事をして風呂に入ってから、妻と私は並んでパソコンの前に座って、テルにLINEのビデオ通話をした。呼び出している間、白髪の夫婦がモニターに映っていた。テルが出て、普通の調子で話しはじめた。
「昨日、入学式に行ってきたよ。埼玉に。ネクタイも、YouTubeを見てできた。知らんかったんやけど、3月30日に新入生は健康診断を受けなあかんかったんやって。ポータルサイト見てなかったんで気づかんかった。ほかにもオンラインの英語のテストも受けとかんとあかんかった。それで、昨日入学式から帰って焦って受けたよ。健康診断は明日、3年生のがあるから、そこにまじって受けたらいいんやって」
いつものように呑気に話すテルの声を聞いていると、私は体の強張りがほどけていくのを感じた。

「ちゃんとごはん食べてるの? いろいろおいしそうな店が近くにあるやろ。外食とかしてる?」と妻が楽しそうに尋ねた。すぐ近くに下町っぽいいい感じの商店街があり、入りやすそうな食べ物屋がたくさんあるのを、引っ越しのときに妻と私は見て知ったのだ。「いや、コンビニでおにぎりやサンドイッチ買って食べてる。毎日千円以下で過ごしてるよ」などとテルが答える。
「あのさぁ、明日は帯広豚丼定食、明後日はチャーハン・餃子定食とかどう? 順番に食べていくねん。孤独のグルメみたいに」と、バスの中でGoogleマップで調べておいた店を思い描きながら私は言ってみた。
「今日は、その帯広豚丼の向かいの〇〇温泉に行く予定やねん。お風呂マットが一つしかなくて、乾いてないから」などと、わかるようなわからないようなことをテルが返す。妻も私も声を出して笑った。「お風呂マットがなかったらお風呂入れへんのかい!」
こちらの出来事としては、犬は弱ってるけど、まだ生きているよ、とそれだけ話してLINEを終了した。子どもとの会話が終わると、私は緊張がすっかりとれて眠気を感じた。感謝の一日が、かくして終わった。

著者プロフィール
田中茂樹

1965年東京都生まれ。医師・臨床心理士。京都大学医学部卒業。文学博士(心理学)。4人の男の子の父親。
現在は、奈良県・佐保川診療所にて、プライマリ・ケア医として地域医療に従事する。20年以上にわたって不登校やひきこもりなどの子どもの問題について、親の相談を受け続けている。
著書に『子どもを信じること』(さいはて社)、『子どもが幸せになることば』(ダイヤモンド社)、『去られるためにそこにいる』(日本評論社)、『子どもの不登校に向きあうとき、おとなが大切にしたいこと』(びーんずネット)がある。