自分も子育てでいろいろ悩みながら、子どもの問題について親のカウンセリングを長年続けてきました。また、地域の診療所で外来診察や訪問診療も担当しています。育児の悩みや家庭でのコミュニケーション、そのほか臨床の現場で出会ったこと、考えたことなどを書いてみます。
この子はどんな形の木になるのだろう
死に近き犬
わが家で飼っている犬が、亡くなりつつある。支えてやるとなんとか水を飲めていたが、それも飲まなくなってきた。犬が家に来たのは末っ子(T)が2歳の頃だった。間に合わないだろうと思っていたが、連休で帰省してきたTは、息をしている犬に会えた。昨日はTの幼馴染のヨシダくんがやってきた。「犬、弱ってるんすか?」とヨシダくん。「もう死ぬんよ、老衰で」と僕が答えると、「えー! 悲しいな、それは……。触ってもいいですか」と、犬の近くでかがむ。傷(何ヶ所も床ずれができている)から膿が出ているので、「(触るのは)アタマだけにしといたほうがいいよ」と言うと、頭をなでながら「あっくんにも知らせとかんと……」などと言いながら、スマホでなにやら送っている。彼らも物心ついた頃からココアと知り合いで、Tと犬はセットのような感じなんだろう。
犬はもう自分では首を支えられないので、水をやるときは低い皿に少しだけ入れて、首を支えながら飲ませている。Tはそれを知らない。昨夜、僕らが寝た後で、犬の水入れに水がないことに気がついて、飲ませようとしてくれたらしい。今朝、起きると、犬の近くに水入れが置いてあった。水は入っておらず、犬の首の下あたりが濡れていた。飲ませようとして、うまくいかなかったのだろう。床の水は拭いたようだった。
フェルトの形は神様の仕事
今日は休みなので、近くのカフェにモーニングを食べにきた。妻はフェルトに凝っていて、月一回のレッスンのたびに一つ作ってくる。向かいの席で自分の作ったフェルトの鞄を眺めながら、「フェルトの面白いところは、ある形にしようと思って作っても、毛の固まり方は思い通りにならんのよ。だから思っていたのとは違う形になっていくんよ。それも味ってこと」などと呟いている。それを聞いて、「今、なんか深いことを言ったな」と僕が言うと、彼女は左手の人差し指を天に向けて、「(名言が)出たやろ!」とにっこりする。
衛生陶器の会社の人がラジオ番組かなにかで話していたことを思い出した。陶器は最後は火の仕事なので、乾燥させて、焼き上げて、という過程で10%ほど縮む。いくらこの大きさで、形で、と思っていても、思い通りにはならないのだそう。せっかくフェルトの素敵な話(縮むところは神様の力だから、など)をしているのに、便器の形が思い通りにならないのも同じらしいよ、などと言ってはいけないな、と気持ちを引き締めた。友人たちから、よくこういう失敗をしたという話を聞いている。それは言うか言わないかの違いだが、でも、その違いは大きいな、などと考えているうちに、妻のほうでも「フェルトを極めるためには、羊の毛の一頭買いをしたほうがいいんかな」とか「昔はどの家も羊を飼っていて、年に1回毛を刈って、それでスーツやコートを作ったんやってよ」などと、やはり妄想が走っているようだった。
まるでヤシの木のような元垣根
違う形になっていくといえば、樹木もそうである。一昨日は近所の友人宅でバーベキューをした。庭の西側にカシノキが10本ほどあった。それらは2.5メートルぐらいの高さに揃えられていて、どの木も同じようにてっぺんだけに葉が残り、そこから下はつんつるてんに枝が刈ってあった。「これは変わった仕立て方ですね、ヤシの木のようですよ」と僕が言うと、「私が切ったんですよ。夫は切ってくれませんから」とKさん(奥様)が少し誇らしげに言う。続けて私が「でも、これらの木はお隣との境の目隠しですよね? これだと、目の高さに葉がなくて、目が合いますよ」と言うと、「すごく繁ってきたので、手の届くところだけとりあえず切ったんです。上のほうは届かなくて……」とKさん。「垣根にしたいなら、目の高さぐらいで主幹を切って、その下の枝は残したほうがいい。枝に葉がつくと垣根になりますよ」と私。そんな話をしたようだが、飲んでいたので忘れていたのだった。
さて、カフェから戻って、本を読みながらうとうとしていると、Kさんが来た。「木を切ろうと思って切ってみたけど、すごくたいへんなんです……」などと玄関で妻と話している。見ると、Kさんはいつもの優雅なサンダル姿で、庭作業の格好ではない。「自分だったらこう切りますよ、なんて言ってたではないですか。それをちょっとやって見せてくださいな」そういう彼女の心の声が聞こえてくるような気がする。
では見に行きましょう、と妻と出かけた。そして、ヤシの木のようにてっぺんにだけ葉が残ったカシノキを、すぱすぱと目の高さで切り揃えていった。息を整えながら切っている僕を、Kさんが、上手におだててくださる。「まあ、シゲキさんは、なんと上手に切るのでしょう! うちのノコギリと同じ道具とは思えませんわ! すばらしいです〜!」「へい、こちとら、長らくこの道具一本で方々回らせてもらっとりやす」そういう感じで切っていき、無事切り揃え終わった。うまくいけば、幹の低い位置から脇芽が出て葉が茂っていくだろう。
この子はどんな形の木になるのだろう
たいていの木は放っておけば、全方向に枝を伸ばして丸くなる。その丸い形のままで年々大きくなっていく。そんなことを祖父から聞いたことがある。それが光合成の量が多くなる形なのだろう。もともと、枝はいろいろな方向に出て伸びていくはずなのだ。しかし、望ましい(と人が考える)枝以外の枝を切ってしまって、一部の枝だけを伸ばすことにより、木を思い通りの姿に仕立てることもできる。たとえば台杉のようにまっすぐのひょろっとした形に仕立てることもできるし、昔の家によくあった門かぶりの松のようにすることもできる。ある程度の大きさに育ってしまった木は、もしも途中で幹が切られたり折れたりしたら、もう下のほうからは新しい脇芽が生えてこずに枯れるようである。
以前『子どもを信じること』という本で、早期教育には、土地を広げるのを早々にやめてしまって、ヒョロ高い建物を建ててしまうような問題があると書いた。子どもの頃にいろいろな体験をすることは、土地を広げるようなものである。それをしないで、後になってほかの建物を建てたくなっても土地がないよ、と。枝を切って木を仕立てることも、似た側面があるようだ。いろいろな方向に出ようとする枝を幼木のうちにみな切ってしまって、上にだけ伸ばす。すると背ばかり高い不自然な樹形になるだろう。それがもしも途中で折れてしまったら、下のほうから新たに脇芽を出す力は残っているだろうか。
樹木にとっての幸せな形とは、どういう形なのだろう。どの木も、生えたところの環境から影響受ける。一本立ちなら、大きく丸くなれる。しかし、並木の中の一本であれば、となり同士で高さを競う。土手の斜面に生えていれば、それに合わせた形に枝を張っていく。未来の予想はつかないので、どの方向に伸びるのが幸せなのか、伸ばすべきなのか。
子育てにおいても、同じようなことが起きてくる。自分の価値観に従って、子どもを伸ばす方向を決めようとする親もいる。昔のやり方がこの先も通用するとは限らない。親と子は違うので、親が幸せだと思う方向が、子どもにも幸せであるとは限らない。子どもが木であるとすれば、子どもの枝は、自分が心地よいと思う方向に、不快の少ない方向に伸びていくだろう。そしてその子にとって幸せな形の木が出来上がっていくだろう。一方で、環境や本人の個性がどうであろうと、うちの子の「樹形」は決まっているんです、というような育て方をよくみかける。親からみて好ましくない枝は早々に切ってしまう。親が伸ばしたい方向にだけ枝を伸ばす。でも、自分だったら、せっかく生まれてきてくれたのだから、そして子どもは自分とは違う人間なのだから、子どもがどんな木になっていくのか、邪魔せずに見守りたいと思う。
Kさんの家から帰ってくると、あっくんが来ていた。あっくんは犬の近くに座っていて、犬の頭をなでながらなにやら話しかけていた。
-
第1回小言を言わないということ
-
第2回鼻血の教訓
-
第3回誰が息子に現実を教えてくれるのですか
-
第4回子どもを本当に励ます言葉
-
第5回今のままではダメなんですか?
-
第6回乾燥機は使わないで
-
第7回ある幸福な一日
-
第8回吹雪の中を
-
第9回この子はどんな形の木になるのだろう
-
第10回鼻クソを拭かせてください
-
第11回徳島で一番の蕎麦
-
第12回迷ったり悩んだりするあなたを信じます
-
第13回なぜ子どもが話をしてくれないのか
-
第14回孫もワンオペ
-
第15回誰の気持ちが中心になっていますか?
-
第16回これだってすごくジェンダーな状況だよ!
-
第17回お父さん!お母さん!キャンプに行きませんか?
-
第18回規則正しい生活
-
第19回子どもの成長を尊いと感じること
-
第20回とうちゃんのようになりたいと思います
-
第21回娘が家にお金を入れない
-
第22回お父さんをどうしたらいいでしょう?
-
第23回結果ばかりにこだわる子ども
-
第24回山空海温泉のこと
-
第25回子どもの機嫌をとることへの罪悪感
-
第26回ごはん一杯おかわりするならゲーム15分
-
第27回理由も聞かずに味方になる
-
第28回いわゆるゼロ日婚約の知らせ
-
第29回子どもを叱るとき暴力はダメ
-
第30回「豚の珍味出てる」というLINE
-
第31回ゼッケンは毎年、つけ替えること
-
第32回反抗期を長引かせる方法
-
第33回この不幸を手放したくない?
-
第34回あえて甘えさせるという育児のぜいたく
1965年東京都生まれ。医師・臨床心理士。京都大学医学部卒業。文学博士(心理学)。4人の男の子の父親。
現在は、奈良県・佐保川診療所にて、プライマリ・ケア医として地域医療に従事する。20年以上にわたって不登校やひきこもりなどの子どもの問題について、親の相談を受け続けている。
著書に『子どもを信じること』(さいはて社)、『子どもが幸せになることば』(ダイヤモンド社)、『去られるためにそこにいる』(日本評論社)、『子どもの不登校に向きあうとき、おとなが大切にしたいこと』(びーんずネット)がある。