自分も子育てでいろいろ悩みながら、子どもの問題について親のカウンセリングを長年続けてきました。また、地域の診療所で外来診察や訪問診療も担当しています。育児の悩みや家庭でのコミュニケーション、そのほか臨床の現場で出会ったこと、考えたことなどを書いてみます。
いわゆるゼロ日婚約の知らせ
先日、会議のような会議でないような話し合いを職場でしていたときのことです。同僚のAさんのスマホに着信がありました。彼女は、さっと立って会議室の隅に行きました。廊下には出にくい位置だったのです。そこでスマホを耳に当てて話を聞いた彼女は、まもなく「えー!おめでとう!」と言いました。それで私も彼女のほうを見たのですが、ほどけるような笑顔になっていました。その声の大きさが、いつも控えめで周囲を気づかう彼女には、ちょっと似合わない(といっても、それほど大きな声ではなかった)感じでした。その後、何か少しだけ言って、彼女はすぐ電話をきって戻ってきました。
会議のようで会議ではなかったので、皆が、それまでの話し合いの内容よりも、Aさんの電話の内容を知りたがりました。なにがおめでとうなの?と。それほど彼女は幸せそうな顔になって戻ってきたからでした。
Aさんの電話の相手は、めったに家に帰ってこない、遠くに住んでいる息子さんだったそうです。スマホに名前が表示されて、久しぶりに突然の電話だったので、とっさに悪い知らせかと思ったそうです。
「もしもし。今ちょっといい? びっくりさせて悪いねんけど、婚約しました。相手は会社の同僚です。いわゆるゼロ日婚約ってやつです」
Aさんは、「ゼロ日婚約」という言葉はわからなかったけれど、うれしくなって、おめでとうと思わず言ったそうです。そして「何か母さんがすることある?」とだけ返した。息子さんは「ない」と答えた。そこでAさんは、「じゃあ仕事中なんでまたあとでね」と電話を切ったそうです。後ほど息子さんからはLINEで、「びっくりさせてごめんなさい。まともな人なので心配しないでください」と送られてきたとのこと。かなり個人的な内容でしたが、突然の電話で動揺していたし、また、とてもうれしかったということもあって、Aさんは電話のやり取りを、その場の皆に共有してくれたのでした。
Aさんが息子さんから聞いた説明によると、「ゼロ日婚約」とは、交際期間がなく、告白してそのまま婚約することなのだそうです。おもしろい言葉ですね。昔のドラマのプロポーズのようなものなんでしょうか。「僕と結婚してください!」「え!?」と言いながら、プロポーズされた女性の顔がぽーっと赤くなるような。Aさんの息子さんと婚約者の場合は、会社の同僚だったので、知り合ってその日に婚約というのではなく、前から人となりは知っていたけれど、お付き合いはしていなかった。そして、思いを打ち明けあって、その日に婚約した、という話だったようです。
そのとき、会議に参加していたBさん(女性)はとても驚いていました。「おめでとうは、おめでとうやけど、Aさん、でもあんた、そんなんでええの? 相手の人のこと、全然知らんのやろ? 私も同じような、いや同じじゃないな、まあ、そういう電話を息子からもらったんよ。ちょっと前やけどな。息子から電話で、今付き合ってる人と結婚するつもりやって言われてん。聞いた途端に思わず、もうちょっと考えたほうがいいんちゃうの?って言ってしもたんよ。何回か会ったこともあったし、いい子やなとも思ってたけど。でも、まだ付き合って3か月ぐらいやったから。それでちょっと早いんちゃう?って思ってしまって。でも、私がそう言った言葉を、電話の向こうで、息子の横にいた彼女も聞いちゃって号泣したらしいねん。それで結局、結婚はせんことになったんよ。あれは失敗したなぁって思うけど。でも、考える前に思わず出ちゃったからなあ。だってさぁ、せっかく結婚しても、すぐ別れるとか、よくあるやん。そうなったら、どっちも大変んやんか。そう思わへん? でも、私のそういう考え方があかんのかな。さっきAさん、あんた、いきなり、婚約する、やなくて、婚約したって知らされたやろ。それやのに、途端にあんな笑顔になったもんなぁ。なんでそんなんできるんやろ?」
前回書いた、レストランに行ってメニューを開けた途端に「俺大学やめる」と告白した息子さん。それをすんなり受け入れることができたお母さん。あの話に通じるものがあると私は思います。とっさの場面で思わず出る本音は、コントロールが難しい。
Aさんは息子さんのことを信頼しているのでしょう。息子さんが出会う未来を楽しみに感じている。Bさんも息子さんを大切に思っている。そして息子さんのことを心配している。なにか困ったことが起こるんじゃないかなと思っているのかも。こればっかりは、心の奥の本音が、自動的に反応して表情や言葉になって出てしまうから、普段よほど心がけていても、理想的な返し方ってなかなかできないんだろうなぁと、Aさんの反応を間近で見て感じました。
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第1回小言を言わないということ
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第2回鼻血の教訓
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第3回誰が息子に現実を教えてくれるのですか
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第4回子どもを本当に励ます言葉
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第5回今のままではダメなんですか?
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第6回乾燥機は使わないで
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第7回ある幸福な一日
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第8回吹雪の中を
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第9回この子はどんな形の木になるのだろう
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第10回鼻クソを拭かせてください
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第11回徳島で一番の蕎麦
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第12回迷ったり悩んだりするあなたを信じます
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第13回なぜ子どもが話をしてくれないのか
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第14回孫もワンオペ
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第15回誰の気持ちが中心になっていますか?
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第16回これだってすごくジェンダーな状況だよ!
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第17回お父さん!お母さん!キャンプに行きませんか?
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第18回規則正しい生活
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第19回子どもの成長を尊いと感じること
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第20回とうちゃんのようになりたいと思います
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第21回娘が家にお金を入れない
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第22回お父さんをどうしたらいいでしょう?
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第23回結果ばかりにこだわる子ども
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第24回山空海温泉のこと
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第25回子どもの機嫌をとることへの罪悪感
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第26回ごはん一杯おかわりするならゲーム15分
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第27回理由も聞かずに味方になる
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第28回いわゆるゼロ日婚約の知らせ
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第29回子どもを叱るとき暴力はダメ
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第30回「豚の珍味出てる」というLINE
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第31回ゼッケンは毎年、つけ替えること
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第32回反抗期を長引かせる方法
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第33回この不幸を手放したくない?
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第34回あえて甘えさせるという育児のぜいたく
1965年東京都生まれ。医師・臨床心理士。京都大学医学部卒業。文学博士(心理学)。4人の男の子の父親。
現在は、奈良県・佐保川診療所にて、プライマリ・ケア医として地域医療に従事する。20年以上にわたって不登校やひきこもりなどの子どもの問題について、親の相談を受け続けている。
著書に『子どもを信じること』(さいはて社)、『子どもが幸せになることば』(ダイヤモンド社)、『去られるためにそこにいる』(日本評論社)、『子どもの不登校に向きあうとき、おとなが大切にしたいこと』(びーんずネット)がある。