子育てに迷う

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この連載について

自分も子育てでいろいろ悩みながら、子どもの問題について親のカウンセリングを長年続けてきました。また、地域の診療所で外来診察や訪問診療も担当しています。育児の悩みや家庭でのコミュニケーション、そのほか臨床の現場で出会ったこと、考えたことなどを書いてみます。

第37回

カビテ州立大学獣医学部

2024年12月27日掲載

今年の9月半ば、妻と僕はフィリピンに行ってきました。次男の卒業式に出席するため、そして彼がお世話になった人たちに感謝の気持ちを伝えるためでした。

前回書いたように、私たちの次男は高等専門学校を5年で中退し、大学を受験しました。その年の受験は不合格。そこから1年間浪人しましたが、なかなか勉強に集中できず、翌年の受験もうまくいきませんでした。そこで彼は受験をあきらめて、以前から住みたがっていた北海道で働くことにしました。このあたりのことは、拙著『去られるためにそこにいる』の「カウンセラーも悩む親」という章に書きました。その文章では、妻と僕を合わせたような存在であるカウンセラーで母親のAさんと、受験をやめて北海道に行く息子Bくんのこととして書いています。受験に失敗して北海道で働き始める息子Bくんのことで、親として苦しんでいるAさんが、仕事では、同じような状況で悩む親の話を聞いて、いろいろと考えるという内容でした。

勉強していい大学に入って就職して……というステレオタイプな価値観を子どもに押し付けて疑わない親の話を、カウンセリングで聞きながら、そこに違和感を感じていました。しかし、自分の子どもに対しては「あなたもいつかちゃんと人生に向き合わないとだめだよ」と思っていました。でも息子から、「こうやって気を紛らわせながら生きていくのは、あかんことなん?」と、ずばっと言い返されてしまいました。そこで目が覚めました。それが2017年の夏のこと。場所も覚えています。次男が暮らしていた上士幌町の町営住宅の駐車場での出来事でした。

そうやって十勝で暮らしていくなかで、あるとき次男は帯広市が主催した留学生と市民の交流会に参加しました。そして、その会で講演をした留学生のうちの一人、アディさんというフィリピン出身の獣医師さんと知り合いになりました。彼は帯広畜産大学の博士課程の留学生でした。交流会で講演をしたアディさんに、次男が質問に行き、そこから親しくなったそうです。

2018年の年が明けてすぐのこと。「フィリピンに行って、アディさんが教員をしているカビテ州立大学の獣医学部で勉強をしたい」と、次男は私たちに伝えてきました。正直なところ、それを聞いて妻も私も、とても不安になりました。その2年前に、次男は卒業間近で高専をやめて、受験したいと言い出し、そして浪人した。それもうまくいかず十勝に行き、牧場で働きだした。今度は、またそこもやめて、フィリピンで大学に通うと言いだしたのです。

次男はおだやかでやさしく、真面目な性格です。しかし、選ぶ道が友人たちと違っていて、どれも大変そうに親からは見えます。急にフィリピンに行くと言いだされても、行き当たりばったりな感じにしか思えませんでした。妻も私もフィリピンに行ったことはなく、何の知識もありません。ときどきマニラで日本人が犯罪にあったなどのニュースを聞くぐらいでしたから、余計に心配でした。

春に次男は十勝の住居をひきはらい、仕事をやめて帰ってきました。博士の学位をとってフィリピンに帰るアディさんも、帰国前にわが家にしばらく滞在しました。アディさんは、30代前半ですが、とても落ち着いた感じで、非常に優秀な人という印象でした。次男がカビテ州立大学に入学するために必要な書類の準備を滞在中にサポートしてくれていました。

若いけれど、とても信頼できる人だと感じた私たちは、アディさんに正直に自分たちの不安を、次男のいないところで打ち明けました。次男は英語が得意なわけでもない。今までの経過からしても、たとえ大学に入れても、勉強を続けられるとはとても思えない。

僕がそう言うと、アディさんはゆっくりとこう話してくれました。
「あなたたちが親として心配するは当然だと思う。でも彼は賢くて、誠実な人間だ。自分の親友だ。ただ、日本以外の世界のことを彼は本当になにも知らない。自分がどれだけ恵まれているか、彼はまったくわかっていない。フィリピンで暮らすことは、まちがいなく彼を成長させるでしょう。大学での勉強はもちろん簡単ではない。もしかしたら2年生にさえなれないかもしれない。でも、そうであっても1年でもフィリピンで暮らしてみることは、彼にとって重要な意味があると自分は思う。そこで彼は世界を知ることになるでしょう。彼が安全に過ごせるように、自分はできるかぎりのサポートをします」
なんとありがたいことかと思いました。こんな人と友人になれた次男には、親には見えない良いところがあるのかもしれないとも思いました。

それが、6年前のことです。かれは獣医学部に入学する初めての日本人になりました。その年の年末に、休暇で彼が帰国したとき、妻と私は関西空港まで車で迎えに行きました。私たちの姿を見つけて、次男は笑顔になり「遠いのにありがとう」と言いました。今まで、こちらがなにかをしても、こういうふうに、お礼を言われたことはなかったな、と思いました。彼と自分との距離を感じ、彼が大人になったとも感じました。学生生活は、大変だけど楽しいと彼は言っていました。

僕は英会話の練習のために、運転中はいつもラジオのビジネス英語を聞いています。フィリピンに行く前の次男は、それがまったく聞き取れなかったはずでした。しかし、まだ半年しかフィリピンで暮らしていないのに、空港からの帰りの車の中で、次男はビジネス英語の内容を余裕で(私たちと雑談しながら)聞き取れるようになっていました。そのことにすごく驚いたのを覚えています。

次男やアディさんのフェイスブックで、大学での生活を垣間見せてもらうのが本当に楽しみでした。大きなヤギのツノ切りの麻酔実習の様子。牛の尾から苦労して採血する仲間たち。キャンピングカーで地方をまわっての野良犬や野良猫の避妊手術。PCRを使ってのウイルス検出の実習、その報告や議論の様子の動画。テスト期間が終わって仲間たちと打ち上げのBBQ。海に行ったり山に行ったりといった楽しそうな写真。

次男の入学した年、獣医学部の1年生は6クラス、200人ほどいたそうです。フィリピンの大学は、日本と比べると、入学することは比較的簡単でも、進級がかなり難しい欧米のシステムであり、留年は当たり前。次男の学年で、6年生までストレートで進級して卒業できたのは、18人だけだったそうです。なんと次男はその18人に入りました。

私たちがマニラ空港に着くと、次男がカビテ州インダンから車で迎えにきてくれていました。車はアディさんの車を使わせてもらっているとのこと。大学の近く、タガイタイという町にあるホテルまで送ってくれる道中、高速道路を降りてから下道20kmぐらい、信号はほとんどありませんでした。街灯も少ない。その中をトラックや乗用車だけでなく、トライシクル(バイクの横に座席がついている)やら、ジプニー(車体の長い乗り合い自動車)やら、バイク、歩行者、犬など、暗い中、たくさんのものを追い越したりすれ違ったりします。夜遅いのにも関わらず、建物から子どもがたくさん出てくるのをよく見かけたので、その理由を尋ねました。
「この国は子どもの数がすごい勢いで増えている。1学年200万人ぐらい(日本は70万人)いる。それで学校の建物が足りないので、2部制にしていて、朝6時ごろから昼までの子と、午後1時から夜までの子がいる」
そういう説明をしながら、私には決してできそうにない運転を楽々とこなしているのを見て、それだけでも次男の成長を感じました。

翌日、獣医学部の校舎に私たちが行くと、先生方や職員の人たちが歓迎してくれました。みなさん素敵な笑顔で「おめでとう!」とか「彼に会えなくなるのがさみしいよ」と言ってくれました。卒業式では、明るい雰囲気の中、卒業生の一人一人が名前を呼ばれ、スクリーンに顔写真が大きく映し出されます。呼ばれた卒業生は、一人ずつ壇上に上がります。いわゆる学者さん帽子のようなものをかぶり、ガウンを纏っています。そこで、保護者と先生からフードとよばれる垂れ布を、首からかけてもらいます。フーディングセレモニーと言うそうです。

子どもの横に立つ保護者はみな誇らしそうでした。獣医はフィリピンでとても尊敬される職業とのことです。前に出てフードを被せる役は妻がやりました。日本人の卒業生は初めてということもあり、次男の名前が呼ばれたときは、ひときわ大きな長い拍手と歓声が上がりました。ここで彼がとても大切にされていたこと、さぞや頑張ったであろう彼の6年間が偲ばれて、私は涙が止まりませんでした。

大学はインダンというところにありますが、少し離れたタガイタイという観光地のホテルに私たちは泊まっていました。そのホテルの近く、タール湖を見下ろすレストランの屋外テーブルの席で、次男の仲間たちがお祝いをしてくれました。1年生のときのクラスメイトが中心です。そのなかで、今年卒業するのは次男だけでした。みな4年生だったり5年生だったり、大学をやめて働き出していたり。でも、とても仲が良く、本音で、そして気楽につきあっているのがわかりました。次男の卒業を心から祝福してくれました。彼ら彼女らは僕たちにも親切で礼儀正しかったです。

バナナの葉の上に並べられたチキンやエビ、フルーツなど、見たことのないさまざまな料理を、手で食べるブードルファイトという食べ方で食べました。それは人々が親しくなるときにする食べ方なのだそうです。ある女の子が、1年生のときにこの料理を一緒に食べたら、「彼(次男)は『モンキースタイル』と言った」と少し怒った顔で言い、みなが笑いました。

次男はフィリピンの国籍がないので、フィリピンで獣医師試験は受けられません。日本の試験は受けられますが、来年2月の試験には書類が間に合わず受けられないので、再来年受けるようです。もし合格したら、カビテ州立大学出身のはじめての日本の獣医師になります。ちなみに僕としては、その試験を受けようが受けまいが、どこに住もうが、もうどうでもいいと思っています。慣れないところで、コロナの期間もあわせて6年間、こんなにいい友人をたくさんつくって、生き延びられた次男ですから、この先も、どうにでもやっていけると今は確信しています。むしろ、親である僕たちのほうが助けられる、心配される立場なのでしょう。

ホテルに、車で僕たちを迎えに来てくれたのは、次男の親友の一人のKくんでした。その表情や話し方で、次男とすごく仲が良く、たがいに信頼していることがわかりました。自分にも何人かこんなふうに信頼しあった親友が若いころにいたのを思い出しました。あとで食事のとき、向かいの席に座っていた彼といろいろ話しました。彼は、途中で獣医学部からコンピューターサイエンス学科に移って卒業し、今はIT関係の会社で働いているとのことでした。

彼のラストネームは日本の苗字でした。それは彼の母親の今の夫(日本人、3回目の結婚)の苗字。彼の生物学的な父親は、母親の2番目の夫でバングラデシュ人(彼はくっきりした目鼻立ちをしていました)。
「自分が生まれて半年で母親は離婚した。自分はその父に会ったことはない。自分の兄は〇〇という別の日本の苗字。それは母親が日本に働きに行って、最初の結婚をした男性の苗字だ。現在母親は〇〇県で暮らしている。今月、母に会いに日本に旅行に行くはずだったけど、ビザが下りなかった。兄と一緒にビザを申請したが、兄は、日本とフィリピンの二重国籍。そういう人はビザが下りないことがある。巻き添えで一緒に申請した自分もビザが下りなかった。そういうことはよくある(まったく不満そうではない、そういうものだ、という感じ)。来月、恋人と台湾に旅行する。そうすると、台湾に行ったという実績ができるので、クレジット(信用)があがって、日本のビザも下りやすくなる。そうしたら今度は自分一人で申請して、来年はじめごろ母親に会いに日本に行くつもり」
彼の話はこんなふうでした。ややこしい話であり、僕の英語力では、何度もついていけなくなりました。その間、僕の隣で別のほうを向いて、タガログ語+英語で友人たちと話をしていた次男が、ときおりこちらを振り向いて、「父さん、今の話、わかった?」と、通訳して助けてくれました。次男はそれほど「耳が良く」なっているのでした。

次男の素敵な友人たちと、いろいろな話をたくさんしました。コロナの間、休学してアルバイトをして生活費を蓄えたという子も何人もいました。実家の裏庭でウサギを飼って毎月何十羽も販売したという男の子。彼ら彼女らの話してくれるアルバイトが多彩で説明を聞くのがなんともおもしろかった。日本とは違ったいろいろな困難のある状況で、みな前向きに、明るく生き生きと、あくせくせずに生きていました。いつまでも彼ら彼女らの話を聞いていたい感じがしました。これが、6年前に、アディさんが僕たちに言ってくれたこと、「彼は世界を知らない。彼はフィリピンで世界を知るだろう」という預言の一つなのだと思いました。僕たちもまた世界を知らず、ここで世界を少しだけですが知りました。

帰る前の日に、大学のあるインダンから、車で2時間ほど離れたカランバ州ロスバニョスにあるアディさんの家に挨拶に行きました。次男は毎週末のように、ここで家族の一員として過ごさせてもらっていました。その支えがなかったら、とても勉強を続けることはできなかったでしょう。比較的大きなお家ですが、それでもアディさんのお母さん、お兄さんやその三人のお子さんたち(奥様は外国に出稼ぎ中で不在)、お姉さんや弟さん、アディさんも合わせると8名。そこにまったく他人の外国人である次男が、ずっとお世話になっていたのです。自分の家でそんなに長く他人を受け入れることは、僕には考えられないことです。そういう話をして、いかに自分たちが感謝しているかを、僕は話しました。アディさんのお母様は、そんなこと言わなくてもいいのよ、という表情をして、言いました。
「彼は家族の一員だと私たちは思っています。私たちは彼を誇りに思います。あなたたちもいつでも遊びに来てください」
そこでも私は涙をこらえることができませんでした。

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著者プロフィール
田中茂樹

1965年東京都生まれ。医師・臨床心理士。京都大学医学部卒業。文学博士(心理学)。4人の男の子の父親。
現在は、奈良県・佐保川診療所にて、プライマリ・ケア医として地域医療に従事する。20年以上にわたって不登校やひきこもりなどの子どもの問題について、親の相談を受け続けている。
著書に『子どもを信じること』(さいはて社)、『子どもが幸せになることば』(ダイヤモンド社)、『去られるためにそこにいる』(日本評論社)、『子どもの不登校に向きあうとき、おとなが大切にしたいこと』(びーんずネット)がある。